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「片翼の技工士」の行くところ・・・・・会員以外の方からの投稿です。

                             加藤敏明

日本の歯科の起原については平安朝(794-1184)頃から仏師によって木製義歯が作られてからと言われます。ヨーロッパでは、近代歯科学の祖といわれたJoan Pierre Fauchard(1690-1761)によって金属枠の総義歯が作られましたが、実用性に乏しく、実用出来る木製の義歯はアメリカのGardette, J.が使用した1800年頃に入ってからであります。

歯科治療が行われたのは室町末期で、幕府医官として口中医がいました。江戸時代初期にも幕府や藩には、お抱えの 口歯科、口中科を専業にする医師がいて、口、喉、歯の治療をおこなっていました。しかし、治療は上層階級やお金持ちの人に限られていました。 庶民は仏師に代わって発展した「入れ歯師」の治療を受けていました。「入れ歯師」は、親方に弟子入りして修行した後、一人前になると免許をもらい独立しました。「入れ歯師」は、香具師(やし)の組織に属して店を構える者や、あちこちに出張して滞在し入れ歯づくりを行う物で、営業形態が大道、旅商、定住、店舗、家中、口中型に分かれていました。 江戸時代中期には、口中医も入れ歯を作る様になり、又入れ歯師で口中治療を行う者が出て「歯医者」と称しました。この様に日本の歯科治療は口中医、口科医、歯医師、入歯師、などが行い、医師の範疇から香具師(やし)の類までありました。

しかし皮肉なことに日本の近代歯科学はこれらの人達でなく、まったく新しい人達によって発展したのです。それはアメリカ人イーストレーキ(1860、万延元年)歯科医師が横浜で歯科医院を開業したことが出発点とされています。これらの外国人歯科医の元で新しい歯学を修得した人や、自ら外国に留学し歯科医術を修得した歯科医が国から免許を受けて、その人達によって急速に発展したのでした。

1874年(明治7年)の医制で、口中科が眼科や産科と併記され、翌年1875年(明治8年)小幡英之助が歯科の科目で受験し、歯科の名称が生まれ、歯科医として初めて認められました。1883年(明治16年)歯科試験科目が定められ、歯科医師(検定試験)が誕生しました。検定試験を受けない従来からの歯科医療従事者(業者)に対して、1885年(明治18年)内務省の入歯・歯抜・口中治療・接骨営業者取り締まり、同年東京の従来入れ歯抜歯口中治療接骨営業取り締まり規則によって、口中医ついては漢方医と同様に、従来家としてそのまま業を認め、口中医以外は「入れ歯細工師」「入れ歯細工職」「入れ歯製造業」府県の鑑札を受けて営業をしなければならなくなりました。この従来からの歯科治療従事者をそうして「入れ歯抜歯口中治療営業者」といいました。

明治39年(1906年)歯科医師法第48号が制定され、歯科医師検定試験合格者と歯科医学専門学校卒業者(無試験)が近代の歯科医療を担う時代に入りました。しかし従来家は大正末まで存在しましたが、明治後期まで我が国の歯科医療の需要のかなりの部分を担っていたことは間違いない事実です。大正末まで日本の歯科の歴史上「入れ歯抜歯口中治療営業者」を残したため、2種類の歯科が生まれたのだと思います。 昭和4年、初めての国立の歯科教育機関、東京高等歯科医学校が誕生しました。その時に歯科技工手養成科がおかれました。これが正式な歯科技工士養成の始まりで、高等小学校卒の4年修業年限でありましたが、しかし昭和18年に廃止となりました。 昭和6年頃には、尋常小学校卒業で入学できる東京歯科技工士学院、帝国高等歯科技工士学院、東京女子歯科技工士学校、京浜歯科技工士学校から卒業し人たちや、歯科医院で働いていた歯科技工師達が営業権利を認めて欲しいとの動きが高まってきました。これも日本の歯科の歴史の中で「入れ歯細工師」が、「歯科技工士」に変化しただけなので当然の営業件の主張だったのでしょう。中には、昭和14年頃に大日本歯科技工師会(花桐会)は、「我々歯科技工士は入れ歯師として直接患者の義歯を作っても良い」と独自の解釈を展開し、歯科医師法違反事件が続出していました。結果的はこの一連の事件が、「歯科技工法を制定して歯科技工士の業務範囲を限定しておいた方がよい」との考えになったとも言われています。

戦前の日本はアメリカの学問を辞め、ドイツの学問を取り入れようとしました。ドイツでは歯科は医科の中の一分野で、歯科は外科、耳鼻科など他の分野と同じ医学校の中で教育を受けていたのです。この医科と歯科が一元なら、義歯、義眼、義足を作る人は技師の分野となり、歯技分業が明白となったはずです。  しかし昭和20年の敗戦後アメリカ軍事担当者の意見が反映された形で、昭和23年法律第201号医師法、昭和23年法律第202号歯科医師法が制定され、アメリカと同じように医科歯科は二元科しました。

昭和24年日本歯科医師会は「歯科技工士の存在は認めるが、アメリカでは試験制度や資格制度は法制化していない」と歯科技工士の法制化に反対しました。しかし、日本では長きにわたり「入れ歯細工師」文化が残っており、「歯科技工法」を獲得するために昭和26年歯科技工士資格獲得促進同盟結成され、昭和30年8月16日世界に類を見ない「歯科技工法」という業務法が誕生したのです。しかしアメリカと同じように医科・歯科を二元科した上で、アメリカには存在しない日本独自の「歯科技工法」の制定は、飯塚先生の仰るように「2種類の技工士が存在している」と言うことになってしまいました。

「歯科技工法」は日本の文化と歴史が生み出した貴重な法律であるとともに、日本の歯科技工士は平安朝時代の仏師から発達し、面々と引き継いできた由緒ある技術職だと理解いたしております。そして当然過去の入れ歯師より現在の歯科技工士は生体にとって、優れた高精度な義歯を作り出しています。しかし我々歯科技工士は過去の入れ歯師とは違い、印象採得、咬合採得、試適、装着を行ってはならない、「片翼の入れ歯師」であることはしっかり理解しておかなければなりません。そして現在もう一方の片翼は歯科医師にあるのです。

現在医師は、う蝕、歯周病、歯内療法が出来ます。歯科医師の資格のみで行えるのは、歯科修復と補綴欠損と歯列矯正です。そして我々歯科技工士は補てつ物、充てん物又は矯正装置を作成し、修理し、又は加工することができ、印象採得、咬合採得、試適、装着が出来ません。これはある意味、昔の「入れ歯細工師」の仕事を歯科医師と歯科技工士で分けた法律となっています。その意味では2種類の技工士が存在しているといえますが、しかしながら現法では歯科医師の免許で歯科技工を行うことは出来、そして歯科技工士は歯科医師の指示のもとでしか業を行えないのです。「片翼の入れ歯師」と書きましたが今の技工士は飛べるどころでしょうか、単独では生きて行くことも出来ない歯科技工士になったのです。歯科技工士も「戦後レジームからの脱却」と言って歯科技工士法を変えない限り、また入れ歯細工師には戻れないのです。

戦後、日本歯科技工所連盟そして歯科技工士資格獲得促進同盟ができ「歯科技工法」公布後、その流れを汲んで「日本歯科技工士会」が結成されました。その当面の活動としては、歯科技工士試験のための講習会を開くことでありましたので、その時日本歯科技工士会は厚生省管轄の公益に関する事業を行うための社団法人の道を選びました。しかし公益のための社団法人の道を選んだはずの社団法人歯科技工士会は、歯科技工士の既得権を得るための集団と化し、社団法人日本歯科医師会との敵対に歳月を費やして来ました。それは片翼になり単独では生きて行くことも出来ない現在の歯科技工士には、死を意味する選択だったのです。現在の社団法人歯科技工士会は過去の遺物で、役目を終えた不要な存在なのです。今こそ、歯科技工士は過去の日技と決別するときに来ています。   歯科技工士は真摯に過去を振り返り反省し、組織を立て直し、歯科医師の方々に深謝した上で、やせ細った片翼の状態と、今にも死にかけている心を理解いただき、歯科医師の方々に「やはりあなた方、歯科技工士は歯科の片翼であり、歯科は一科でなくてはならない」と言っていただく、努力をしなければなりません。  

歯科医師の陰でも日陰でも、歯科技工士として私は誰かのために役に立つことが出来たと思い、死にたいのです。そんな技工士の思いを理解いただければ幸いです。 (誤字脱字ご容赦お願いいたします)




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Last-modified: 2008-03-16 (日) 16:46:33 (3295d)