Top / 歯牙余論・・その2

歯牙余論も随分コラムが多くなってきました。
読み込みに時間がかかるようになってきましたので、「その2」として、新しい分はこのページに載せていきたいと思います。


歯牙余論(しがのよろん)】
ここでは、歯牙は口の端を意味し、余論はそこからもらしてしまった僅かな言葉のことを言う
悪口や本音など悪い意味を想像しがちだが、
「歯牙の余論を惜しむことなかれ」と言い、少しの励ましや褒め言葉が大切であるという意味。これはまた、じつに良いことである。



The game is over !




 クレジットカードを幾つも持ち歩き、その全てがブラック扱いになって、The game is overというのが星の数ほどあるのは、何処かの国の話である。


 さてレセプトオンライン化の先には社会保障カード導入の話があり、その最終的な目標は社会保障個人会計の構築にある。

人口減少社会に入る我が国にとって、社会保障を安定したものとするには、負担と給付の在り方を再考することが喫緊の課題である。

だが社会保障個人会計というのは、その名の通り個人の一生涯における負担と給付を管理するものである。個人の負担と給付を一年毎に見直すのか、死後に全てを清算するのか分からないが、兎も角その根底にあるのは社会保障という概念と相容れない思想である。

どの道、より多くを望む人には、自助という名の選択肢が用意されるのであろう。


 私は陰謀論というのが嫌いで、少なくともこの国には大掛かりな共同謀議なんて認めないと思っている。これは陰謀だと素人が溜飲を下げることが出来るほどに丸分かりのものは陰謀と言えない。ネットで垂れ流しになっていたり、本屋で平積みになっておれば、そんなものは最早陰謀でも何でもなかろう。ただそれが同床異夢であるにせよ、全くバラバラであるにせよ、保身や利権の為の議論誘導があることだけは確かである。

 たいした共同謀議もないままに、それぞれの利害関係者が自分達の都合の良いところに誘導しようとするものだから、全く本質が見えなくなってしまうのはいつものことだ。国民そっちのけとは、このことをいう。

 将来の消費税増税に就いては、確かに大きな観測気球が上がっているが、相続税の議論に関しては可也の人達が知らないままでいる。それが将来的に社会保障個人会計とどう絡むのかは勿論想像の域を出ない。


 クレジットカードを使い過ぎ、支払うことが出来なくなってGame overであれば、それは自己責任である。そもそもクレジットカードは所持することを義務付けられたものではない。

 社会保障カードは、国民が須く所持するものになるから、たとえそれが死後であるにせよ、使い過ぎればGame overというなら、国民はこの国に生まれ出でた時から社会保障という名のGameに参加させられるということになる。

 流石にこういうものは明日、明後日に決められることではないから、十分な情報を開示して国民的な議論をするべきである。また我が国の将来を担う若い世代が、大きな声をあげることの必要性も感じる。

 個人の負担と給付の在り方といえば既得権益の話になりがちだが、社会保障の在り方と考えれば、それは未だ見ぬ世代も含めてのことになるのではないか。



参考:ITと社会保障 〜個人会計で公的医療保険を救えるのか〜(NTTデータ経営研究所)
http://www.hit-u.ac.jp/IPP/pep/docs/050621ogasawara.pdf


          November 12, 2008 / Fool in the rain


より若い世代へ !




私は、株式にもFXにも余り興味がない。白状すれば、おまけの様な株券と社債を持っていなくはないが、文字通りおまけに過ぎない。

 株式にてインフレリスクをヘッジせねばならないほどの資産も持ち合わせていないし、FXにおける射幸心とレバレッジ、ロスカット制度の関係もうまく理解できない。

 だが、こんな間の抜けたことを言っている私だって、危機的な状況が出来したことくらい分かっているつもりだ。


 案の定、好タイミングで新装版が発売されたジョン・ケネス・ガルブレイスの『大恐慌(※)』が評判になっている。

 ガルブレイスといえば、TBSブリタニカから分厚い単行本で『不確実性の時代』が出版され、飛ぶように売れていたのは、私がまだ高校生の頃である。

 経済学の本線には在らず、大学での講義にもグラフ等を用いることの少なかったと言われるこの巨人は、余りに文学的と揶揄されることもあるが、その卓越したバランス感覚は比類なきものであったと素人ながらに思う。

 今後危機的な状況を果たしていつ抜け出ることになるのか全く分からないが、行き過ぎたものだけは是正されることになるのだろう。ただ、その是正が国家権力主導に依って成されるのか、国民主導で行われるのかは極めて重要な問題になる。


 ここで私は、時計の針を少しばかり元へ戻せということを述べるつもりは全くない。

 話は逸れるが、或るテレビ放送局の人気番組で、高度成長期の様々なプロジェクトに就いて当事者を出演させて振り返るというものがあった。その感覚は全く私の好みに合わなかったが、私より若い世代の人達にとっては、もっと好みに合わないし、それどころか迷惑甚だしいものであったらしい。今はイケドンの世の中ではないし、また理由がそれだけのものではないことが分からないようでは駄目だとは思う。


 潮目が変わって世の中が大きく移ろうとするならば、若い世代の力はより重要になる。後期高齢者医療制度の迷走はあるにせよ、厚生労働省の主たる対策は高齢化から少子化に移行したといわれる。医療政策の立案には、医療関係者だけでなく一般の人達の声が必要なことは言うまでもないが、これからのことを考えれば、より若い人達の思いが反映されなければならない。


 1950年代に、豊かといわれる社会における公共サービスの貧弱さを嘆いたのはガルブレイスである。また消費者主権なるものが、提供者主導に過ぎないところの欺瞞であることを指摘したのもガルブレイスである。

 だが日本の若い世代の人達は、今は亡きこの巨人に言われるまでもなく、殆ど本能的にこういったことを理解していると思う。

 若い歯科医師にしたって、まだ狭い世界で悪しき洗脳を受ける前であれば、若い世代のことが分かるのは当然ではなかろうか。

不易流行という言葉があるが、少し前の流行が最も流行遅れであるとして、どこまで遡って流行遅れなのかは、人生経験が長くなってくると分からなくなってしまう。歯科医なるものを十年ならまだしも二十年もやっていると、どんなに立派なことを言っても結局は自分本位に過ぎなくなる。

兎も角は、歯科医療政策というのも、一般の人達、それもより若い世代の人達の考えが十分に取り入れられねばならないことだけは確かだと思う。



(※)『大暴落1929/ジョン・K・ガルブレイス著 村井章子訳(日経BPクラシックス 2008年9月25日)』
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%9A%B4%E8%90%BD1929-NIKKEI-BP-CLASSICS-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B9/dp/4822247015

   November 3, 2008 / Fool in the rain


蟹の甲羅 !



 『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』という言葉がある。


正直、私はつい最近に教えてもらうまで、その言葉を知らなかった。

蟹は自分の大きさに合わせて穴を掘るところから、人はそれぞれ分相応な望みを持ち、行動することの喩えであるという。

無謀な計画や、それによって他人に損害を与える行動は、私達歯科医にせよ誰にせよ慎まねばならぬから、分相応に振舞うことは大切である。

逆に、人それぞれの器量には違いがあって、小人物からすれば大人物の考えることは中々推し量ることが出来ない。つまり甲羅の大きさは様々ではある。


蟹といえば、フリードリッヒ・ニーチェは晩年の著作「偶像の黄昏」の中で『始原を探し求めることで、人間は蟹になる』と述べた。

歴史家が後ろ向きに信ずることを言ったものだが、すなわち人間の思考停止の問題を表している。

歯科医にも歯科医療の在り方に就いては様々な考えがあって、過去に囚われるべきでないという人もいれば、連続性を絶つような無責任な考えを持つべきでないという人もいる。

歯科医の多くは開業医であるから、臨床家であると同時に経営者である。診療哲学の違いだけなら未だしも、みんなそれぞれに小規模事業主であるから、利害得失が絡んで、てんでばらばらになってしまう。


さて今般の金融危機が収束するのか否か、また金融経済が実体経済に著しい影響を与えるのか否か。それに関して巡回監査業務に来た会計士に言わせると、中小企業は既に苦しい立場に置かれ、9月には新規貸し出しが激減し、いわゆる貸し剥がしなど疾っくに始まっているとのことである。

経済が危殆に瀕すれば、誰だって無関係ではいられない。私達にしたって、業者の餌になる歯科医の多いことは最早笑い話にすらならないが、蟹の餌になってしまうような事例が頻発するという深刻な状況に至るのかも知れない。


今後消費は間違いなくいっそう冷え込む。倒産やリストラは増加するだろうし、その日その日の安心を確保するのも覚束ない情勢であれば、人は身の丈に生きる。だから国民はその多くが『蟹の甲羅』を覚悟し、選択することになるのではないかとも思う。


少し以前まで、一般庶民にとっては実感することの出来ない好景気が続いていた中、格差ではなく貧困の問題は切実となり、書店には小林多喜二の「蟹工船」が平積みになったりした。拙宅の娘も高校の課題図書になったとのことで新装版を持ち帰って来たが、私が読んだ時から数えて丁度三十年になる。

「蟹工船」が当った理由は分からぬでもない。

ただ最後まで蟹に引っ掛ければ、本物の蟹に中ると相当応えるというのは経験者でないと分からないらしい。私は余り好きではないが、今年も蟹の旨い時節が近づいて来たことだけは確かである。



   Inspired by Harry


     October 30, 2008 / Fool in the rain


QOL !

国立国語研究所が「病院の言葉を分かりやすくする提案」に就いての中間報告を行った。

この提案がなされているのは『患者中心の医療が望ましいとの観点から、病院などで診療をする際には、患者に対してその病状や治療法などについて、医療者から十分な説明をし、患者がそれを理解し納得した上で自らにふさわしい医療を選択するのを支えることが求められるようになった』からである。

 『医療者』という言葉には注釈が示されてあって、そこには歯科医師、歯科衛生士、歯科技工士も当然明記してあり、更には医療に関わる人々全体を指すものであるとされている。  詳しくはサイトhttp://www.kokken.go.jp/byoin/teian/を閲覧されることをお薦めするが、本年12月1日まで意見の公募も行っている。


 この提案の元になった調査で、先ず注目すべきは、医療現場において患者が医療用語を誤解している現状が明らかにされたことである。

 例えば「対症療法」のことを「対処療法」と思い込んだ、または聞き間違えた割合が26.8%にも及んだという。

思い返してみれば、私も「対症療法」という言葉を頻繁に患者に対して用いていた。当たり前だが、何も原因療法を碌に行っていなかったということではなく、鎮痛剤を処方する時に「飽くまで」と前置きをつけて使用していただけではある。しかしこれが「対処」と受け取られていたなら、違った解釈で伝わってしまっていたということになってしまう。  今回の国語研の調査では、この他にも様々な誤解例が示されていて、「予後」という言葉の誤解に就いての恐ろしい結果を見ることだって出来る。

 考えてもみれば医療者が使う用語は、私達は知っていて当然でも、一般の人が正しく理解出来ると考える根拠は全くない。それに加えて「会話」の問題がある。毎回漢字を示して説明しているわけでもないのだ。


 『重要で新しい概念を普及させる』項目では、私達が日常用いてはいるが、比較的新しい概念について、一般に定着させるための工夫が示されている。インフォームドコンセント、セカンドオピニオン、ガイドライン、QOL等々。

 その中でQOLという言葉に注目すると、quality of lifeは直訳すれば「生活の質」だが、その認知度は15.9%と極めて低い。そこで先ずは『その人がこれでいいと思えるような生活の質』とすればどうかと提案がなされている。


 さてQOLという言葉は、確かに現場で患者に対して使われなくとも、私達歯科医療者はその内々で頻繁に用いている。だが果たして、皆はどういった意味合いでその言葉を捉え、使用しているのであろうか。


近年、学童の永久歯う蝕有病状況とQOLの相関に就いての調査や、高齢者とりわけ要介護高齢者の口腔ケアとQOLに関しての研究等がなされてきている。

 歯科が如何に、それも全てのライフステージにおいて国民のQOLに関われるかは極めて重要な課題である。まさに歯科界挙げて取り組むべきことであるのはことわるまでもない。

そして結局のところ、患者・国民が何を求め、私達がそれにどう応えるかである。押し売りでも余計なお世話でもなく、各々の歯科医療者がそれぞれの人達の思いを外さないことが肝要なのである。

言葉の言い回しや理解される努力も大切である。その前には、言葉に魂が宿っていなければ意味のないことも当然なのである。



  October 26, 2008 / Fool in the rain


歯科医療の将来性 !



 世界的な金融不安が払拭できない現在、我が国においても誰だって自分の足許を見つめ直すことが必要になっているのかも知れない。


1992年あたりから十年の間に住宅ローンを組んだ人達の中には、実質債務超過に陥っているケースが多いという。また近年では国内でもサブプライムローンと同様のものが多かったのではないかともいわれている。

それよりも日本の経済を支えている中小・零細企業に対する貸し渋りや貸し剥がしが横行しないことに注意が必要と指摘されている。それらの企業が確かに社会の公器であるならば、金融不安に巻き込まれて消滅するのは好ましくないのだろう。


歯科は業種別にみれば、まだまだ安定しているといえる。幾ら選択的消費に分類されるとはいえ、季節変動は余り影響せず、公的保険制度のため回収が容易で、運転資金まで借入金に頼るケースは稀である。確かに高固定費型の事業だが、いわゆる粗利益率が高く、それをもって技術料で継続していけると、異論があろうがなかろうが、少なくとも外からは見られている。

現段階では、倒産・廃業のやむなきに至るケースは他の業種から比べると低率である。潰れてしまうのは、債務が余りに過剰であった場合や、全然に流行らなかった時であるともいえる。

甚だしい見込み違いは、社会の公器であったにせよ、言い訳する術もない。言葉は悪いが、追い込みを掛けるのも、取り立てを行うのも、それはまた貸した者の責務ではある。


ならば全国の歯科医に蔓延する不安はいったい何なのか。それは結局のところ将来性の著しい低下である。昨日よりも今日の方が悪い、今日よりも明日の方がもっと悪い。前進するどころか、幾らだって後退していく気配が感じられる。

他の業種であったなら、後退を余儀なくされれば、必ず構造調整を行う。しかしながらそれも儘ならず、外の世界からは見透かされる状況となった今日、遂には至る所で疑いの目すら向けられるようになった。

歯科業界が一体となって新しい歯科医療の在り方を模索するのは結構だが、「患者視点」とは言葉ばかりで内向きの議論を繰り返すのなら、それは極めてタチの悪い話という他ないのである。



  October 20, 2008 / Fool in the rain


医療費免責制 !



 2006年の医療制度改革の際に、免責制は反対意見多数に依って見送られた。
 この免責制は、医療保険なるものは本来命に関わる重い疾病の時にこそ必要なのであって、単なる風邪等の軽い疾病には用いるべきではないという考えが根底にある。
 例えば、免責額が1000円であるならば、1000円までは保険の適用を受けずに全額自己負担。1000円を超過した部分に就いては、その3割が患者自己負担となる。また一旦この制度が通過してしまえば、免責額は1000円が1500円に、1500円が2000円にと上昇していくことだって考えられる。


 3割を超える負担を求めると、公的医療保険に加入するメリットは殆どなくなるといわれ、保険に入ろうという意志が失われる。結局この免責制なるものは、それを見越しての策略であり、また実現するには健康保険法の改正が必要となる。
 しかしながら、この考えがごみ箱から完全に消去されたとも考えにくい。
 公的保険制度に依って我が国の医療は守られなければならないということは最早異論なきものとなっている。ただ持続可能なものとするために財源の問題は避けて通れないとされている。


 米国の金融危機に端を発し、世界的に経済は縮小していくことが白日の下に晒された。実際のところ、これを書いている今現在においてもいったいどこまで崩落していくか誰も分からないくらいである。
 資産は劣化し、債務は重みを増す。経済成長が見込めないのなら、社会保障も抑制基調に入る。受益者にしても、社会保険料にせよ消費税にせよ、その負担増加を受け入れる余地がなくなっては来るだろう。だから免責制という項目も、軈てはごみ箱から元に戻すことになるのかも知れない。


 免責制が導入されれば、歯科においては如何なる変化を認めるのであろうか。
 受診抑制がかかるのは当然だろう、選択的支出とされる歯科においてはより影響が大きいと考えられる。受診一回ごとに免責額が設定されると、二回かかるところを一回に、三回かかるところを二回にという傾向が必ず現れる。本来治療に二回かけることが望ましい場合でも一回で全てを済ますという希望が生じれば、医療提供者と患者の間に齟齬を来たすし、手抜き紛いで医療の質が下がる危険性も極めて高くなる。結局のところ、財源以外は全て毀損されるということに為り兼ねない。


 確かに財源は避けて通れない問題である。しかし財源一辺倒で考えれば、守るべきものも守ることが出来なくなる。医療にせよ歯科医療にせよ、それが守るべきものであるとするならば、財源問題よりも先ずは高次において、明文化、更に言うなら立法化する必要があるといったところだろう。



   October 10, 2008 / Fool in the rain


制度のマネジメント !



二十世紀以降の泰斗の中でも、三年前にこの世を去ったピーター・ドラッカーほど数多くの名言を残 した人物はいないのかも知れない。

私は、マネジメントの父と呼ばれるドラッカーの熱心な読者ではなく、印象に残っているのが、例え として挙げられたノボカインの開発と歯科医の積極的使用の件であり、それもどの本であったか覚えて いないくらいだから、語る資格がないとは言える。

コンプライアンスの厳格化が求められる時世になって、自らの利益を公益に従わせるのではなく、公 益そのものを自らの利益とせねばならないと説くドラッカーの理論は、多くの人の知るところになって いる。公的機関においても私企業においても、社会人の中でも学生の中でも、みんなマネジメントの何 たるかを競って学ぼうとしているかのようだ。

ドラッカーの述べるマネジメントとは、畢竟は公共の利益を目的とするものなのである。

手元にあったドラッカーの書籍をあらためて紐解いてみると、マネジメントにおいては、企業に限ら ずありとあらゆる組織が社会の機関であり、その存在意義が組織自体にあるのではないことが前提とさ れている。この部分だけでも相当に耳に痛い話だが、その先を読み進めていっても、耳当りの良い話は 余り出て来ない。またそうでなければ、読む価値も認めないであろう。

言い訳は出来ない、逃げることも出来ない。マネジメントの立場にある者は、その全てがプロフェッ ショナルの倫理を求められるとドラッカーは指摘する。

『プロフェッショナルの責任は、すでに2500 年前、ギリシャの名医ヒポクラテスの誓いのなかに、 はっきり表現されている。「知りながら害をなすな」である(※1)』

プロフェッショナルが医師であれ弁護士であれ、またマネージャーであれ、必ずしも良い結果を齎す とことは約束出来ない。そこでドラッカーは続けてこう強調する。

『知りながら害をなすことはしないとの約束はしなければならない。顧客となるものが、プロたるも のは知りながら害をなすことはないと信じられなければならない。これを信じられなければ何も信じら れない(※2)』

これが自立性であり、求められるところの自律である。ここでは読み手の意見が分かれることもない であろう、全く異論を差し挟む余地は認めない。

ただ、続けてこうも述べる。
『プロたるものは、自立した存在として政治やイデオロギーの支配に従わないという意味において、 私的である。しかしその言動が、依頼人の利害によって制限されているという意味において、公的であ る(※3)』

日本の皆保険下での医療制度を思えば、解釈は割れるところであろう。Privatization すなわち「民営 化」を発案したのはドラッカーであると言われている。

だからその医療制度は、ステークホルダーがどのようにマネジメントすれば良いのかとも考えてしま う。確かに何かが変わらなければならない。ドラッカーは何もせぬ冷笑家というものを最も嫌ったが、 またこうも述べている。

『存続と健全さを犠牲にして、目先の利益を手にすることに価値はない。逆に、壮大な未来を手にし ようとして危機を招くことは無責任である(※4)』


参考文献:【マネジメント―基本と原則/P.F.ドラッカー著、上田惇生編訳(ダイヤモンド社 2001 年)】
(※1,2)同書P.113
(※3) 同書P.114
(※4) 同書P. 10


September 28, 2008 / Fool in the rain


Garbage In, Garbage Out !



 どのテレビ局のどの番組だったか分からない。
 座り込んでテレビを観る癖はついていないのだが、兎も角Garbage In, Garbage Outというアメリカ人の英語が聞き取れた。そこでは、下らない人間が政治を司るのは自分達の下らない投票行動に依るということが語られていた。

Garbage In, Garbage Out―――ごみを入れれば、ごみが出てくる。

頭文字でGIGOと表されるこれは、本来コンピューター用語で「誤った入力からは誤った出力しか得られない」ことを意味する。すなわちコンピューターはいつでも望みどおりに正してくれるなんて幻想は持つなという警句である。
 尤も現在では、レセプトコンピューターを思い浮かべるまでもないが、誤った入力に対してはチェックプログラムが機能するのが当たり前にはなっている。
 だがGarbage In, Garbage Outは、冒頭でも示したように広く慣用句として用いられ、統計学的意味合いで「屑データを入力すれば、屑データが出力される」という格言になってきている。

 さてレセプトオンライン完全義務化が目前に迫った今、この言葉は或る種の切迫感をもって私達の目の前に現れる。

 診療にあたったその本人が、よく分からないままに、また疑問を感じながらもモニターをにらみながら入力する。ロジックに間違いがなければ、システムの向こう側に素通りし、データは蓄積される。
 もう一度言えば、疑問を感じながらも入力する。場合に依っては少なくとも点数を入力しないことがある、勿論疑問を感じながら。入力する段になってはじめて疑問を感ずるのではない。診療にあたる、その遥か以前に疑問は生じている。
 疑問が解消されないままにシステムを通過し、疑問だらけのデータが蓄積される。そこから解析されるものはまた疑問の塊であることに違いはなかろう。

 全く疑問だらけのものを入力したところで、全く疑問だらけのものしか出力されない。

 GIGOという頭文字では、Garbage In, Gospel Outという派生形もある。
―――ごみを入れると福音が得られた。
結果が良ければ、それで良し。ならば単に個人の損得勘定の話であろう。または全体として医療費削減という結果が得られれば、それで良いのであろうか。

実のところ、ここでいうGospel outは、皮肉の意味合いが強いそうである。


  September 20, 2008 / Fool in the rain


プロフェッションの過当競争 !



 私達がAutonomyという時、それはProfessional Autonomyのことを指す。


 Professionという言葉の持つ本来の意味からすれば、私達歯科医が患者の健康を守ることよりも多くの報酬を得ることに意志を向ければ、それはProfessionに非ずということになる。

   西欧ではProfessionなるものは自主的に生じ、自らの手でその地位を築いたのに対して、我が国のプロフェッションは国家に依って導入され、明治憲法下で国家に依って統制及び保護されてきたという違いがある。そしてProfession という言葉の持つ理念まで導入されることがなかったとも指摘されている。


 ともかく私達歯科医は、他人に刃物を向けることが許されたプロフェッションであることに相違はない。

   プロフェッションであれば、永続的に公益を慮る為にも、後進を育成するということは重大な責務である。

 近年の市場化の流れで、歯科医療は公益主義に徹するという本来の姿勢が失われ、日に日に営利主義が台頭してきている。しかし営利主義は今に始まったものではなく、遥か以前の差額徴収時代には花開いていたのが事実であろう。だが昨今の営利主義は、甚だしい過当競争に依って食い扶持に困ったが故のものが合わさる。好んでビジネス化するというだけでなく、ビジネスに活路を開かざるをえないものが多く含まれるのである。

 歯科医院過密地帯における新規開業医や開業予備軍とされる勤務医には、制度の大きな改変に依る歯科医療のビジネス化への願いも強いと思う。ただ率直に言って、投下資本の回収が見込めないとか、自分の人生設計が成り立たないというのが本音であってみれば、聞いてくれる相手は閉ざされた歯科界の住人に限られてしまうのが当然である。

 一方で後進にあるべき姿を示さねばならなかった者達も、この過当競争の波に飲み込まれ、似たような白昼夢を見ている。いや、その夢を描き、若い世代にも見させたのは確かに自分達であるのだ。

 自分達は、刃物を向けることが許されたプロフェッションであるのか、単に刃物を握り締めたビジネスマンであるのか。

 そこまで極端な言い方をしなくとも良かろうが、閉ざされた中に居るだけでは、あるべき姿も見失うのが必然だったのではないか。


 Professionであるなら、教育機関を出て免許を得れば全くの自由人というわけにも行かない。またそれ以前にProfessionの限度を越えた生産という話もなかろう。

 我が国にProfessionという言葉の持つ理念が導入されなかったというのは、確かに正しいと言えるのかも知れない。



416 inspired   September 10, 2008 / Fool in the rain



歯科医の年収 !


歯科医の年収―――正直なところ、私はそんなものに余り興味がない。


そこから出て来る話は「儲かって結構ですね」とか「年収300万―歯科医のワーキングプア」とか面白可笑しいものでしかないだろう。

開業歯科医でも、年収300万なら兎も角潰れることはない。いくら過少であれ、業務の継続は可能だ。

歯科医院経営にも様々なケースがあって、千差万別といえる。門前市を成すとまではいかなくとも結構流行っていた筈なのに、或る日突然閉まっていたり、また開設者が変わってみたりもする。逆に門前雀羅を張る状況にして、いつまでも継続しているところもある。或る歯科医院は、タービンの音が聞こえることは滅多にないが、楽器の音色は始終流れて来るという都市伝説だって聞いたことがある。

熾烈な競争の中、結局のところ資金が調達出来るか否かが生命線になるのだ。


金融機関の知人や担当の会計士が言うには、歯科医院経営における最大のリスク要因は過当競争であり、次いで医療費抑制政策だという。確実にデータを読んでいる周囲からすれば、矢張りそうであるらしい。また大概のところは1%や2%の更なる金利負担には耐えられるという。尤もその程度の金利上昇も計算に入っていないようでは、それこそ社会人としての資質も問われる。

どんな職種でも当然だが、歯科医院を継続していくには財務面での管理が重要である。財務分析の各項目で、経営指標や平均値を全てクリアしているようなら余り問題はないのであろう。兎も角どこかの項目で大きな穴が開いていないかを注意して見る必要はある。何で赤点をとっているのか。赤点があっても、他でカバーしているなら構わないのかも知れない。但し学生であるなら、赤点だらけでも留年して一からやり直せば済むのだろうが、一端の社会人にして、望んでなった事業主であるなら、留年も何も、その場からの退場宣告を受ける。


さて、多くの小規模歯科診療所は、今後も含めればジリ貧状態にあると言える。過当競争と医療費抑制政策は、規模の大小に関わらず重く圧し掛かるが、案外にドカ貧に陥るのが大規模診療所であったりする。

そして双方の財務管理や労務管理は異なるため、互いの望むところは全く違ってくる。従って現場の歯科医が何かを提言しようにも纏りがつかないことにもなる。個人・法人や院外技工の有無という区分はあれ、歯科医の多くは開業歯科医である。だから歯科医の提言は開業歯科医、即ち経営者の提言に過ぎないことになりかねないが、それぞれの立場の違いから見苦しい自己主張に終始することもまた多い。

また立場の違いは規模の差に依るものだけではない。社会保障としての歯科医療を守るという提言は、弱小診療所の経営を守るという話と峻別せねばならないし、逆に歯科医療のビジネス化に活路を求め、積極的な投資も行き過ぎて蕩尽に至れば、そこからの提言は業者ひも付きの商業誌の中で行う他ない。


兎も角、数千万の借金を背負って年収を見ればワーキングプアなどと話を急かずに、腰を据えて国民に必要な歯科医療を提供するための資源を現存のデータから分析する必要もあるだろう。

 だが市場原理に依る過当競争極まる中でも、収入が過少なのか支出が過大なのか、財務面で余りにも大きな穴を開けていることは正当化されない。大きな穴は自分の責任で塞ぐべきであって、制度の改変をレバレッジにし、凌を得ようとするような愚かな提言には、世間の誰が耳を貸すというのであろうか。


 それは同業者に依るものでもいい、金融機関や会計事務所などの歯科業界をよく知る者の言葉でもいい。「あなたは、何を思って、どういうつもりで開業したのか」という単純な問いを大きく越えることが必要なのである。



   September 5, 2008 / Fool in the rain 


社会保障という大きな傘 !



 国民皆保険制度の下、私達歯科医療者は確かに社会保障の一端を担っている。断るまでもないが、歯科医療者というのは何も歯科医師とは限らない。そして皆が社会保障に関わっている。しかし今日においては、その意識が極めて希薄になっていると言わざるを得ない。

 歯科医療者にも様々な出身母体や所属団体があって、それぞれに一つ一つの傘を差している。傘といっても、それは自分達の為だけに差しているのではない筈だが、この大切な事を忘れてしまっているようにも思える。

傘には色々な形や大きさのものがある。中には綻びていたり、穴が開いているものもあるのか知れない。またそれらは、隣の傘と重なり合っている部分もある筈だ。重なり合っているからといって、それぞれの傘を取り上げてまで一つの新しい傘にかえる必要もない。二つか三つの傘を覆うように更に大きな傘を掛ければよいのだ。

 あちらこちらに傘の花が咲いている。それは歯科医療者のものに限らない、医療提供者のものとも限らない。また傘は自分達が濡れないようにする為だけのものではない。

傘の上に大きな傘を掛け、更に大きな傘の花が咲く。その上にまた大きな傘が被さり、遂には一つの大きな傘が全てを覆う。社会保障というのは、そういうものではないのか。

 濡れている人がいれば、傘を貸そうというのが慈善であるのだろう。私は、全てを覆う大きな傘が社会保障なのだと思っている。


 今はもう「埋め込まれた自由主義」の時代ではない、「福祉国家」の思想は終焉したとも言われる。待っていたって大きな傘が降りて来ることはない。下手をすれば、一つまた一つと傘を取り上げられるような状況だ。

 だから必要なのは、先ず自分達の持つ傘の使い道を考える、隣の傘に目を向ける、そして自分達で更に大きな傘を掛けることだと思う。


   September 1, 2008 / Fool in the rain


医歯薬進学コース !

 死語になっても構わないと思うのだが、いまだに「医歯薬進学コース」という文字を見かけることがある。殆どは「医学部受験コース」となったにせよ、まだ完全に消えたわけでもない。

 医歯薬は、皆保険制度において診療側として三師会を構成しているし、当然のことながら全て厚生労働省の監督下にある。しかし「医歯薬進学コース」という言葉には、学問上の分類だけでなく、食いはぐれのない職業というニュアンスが含まれている(確かに三十年ほど前の受験時には、歯科医院の倒産など殆ど聞く事もなかった)。だから医学部志望者が、まかり間違って歯学部に入ってしまうという悲劇も生じる。

 もう何年も前のことになる。
 子供がまだ小学生で、進学塾の保護者面談の時、矢張り「将来は医歯薬の方をお考えか」と問われた。

 私は、すぐさま「その医歯薬という言葉は使わない方がいい。歯と薬は余ることが分かりきっているから」と申し上げた。ついでに「2030年代に高齢化の山を越えるまで、国は医療費の抑制にかかるから、医といえども学力優秀な人ならば将来的に後悔をすることになるかも知れない」とも加えた。そして「だから自分の子供には、予算削減の優等生たる厚労省の管轄下に在る職業は勧めない」と答えた。更に「年金を信じるくらいなら宇宙人の存在を信じた方がましだと言われるが、乗り越えられる筈の医療費も、国の破綻の原因になるというのが通説になってしまっているんですよ」と。
保護者面談の席上、ここまで来れば何のことはない、単なるモンスターペアレンツである。

さて、先月の週刊AERAに「10年後には薬剤師の3割が失業」との記事が載った。翌週には、案の定「歯科医のワーキングプア」である。漸くマスコミや世間にも事実が認識され始めたようであるが、数年前や十数年前に送り手と受け手の学校関係者はどのように考えていたのだろうか。

私達現場の医療関係者は肌身にしみて感じていても、監督省庁が異なれば、そんなものであろうか。

   歯科医院であろうが他職種であろうが、まだしも継ぐものがある人は構わないかも知れないが、潰しの利かない学部を出て、飽和状態のところへ資格を持って現れても、正真正銘食いっぱぐれる可能性が極めて高い。
 新しい世代を慮って、そのようにならない施策をといっても、現状数千、下手をすれば万単位が危殆に瀕して、その捌け口に困っている。やりがいとか将来性という言い方もあるが、食いはぐれがあるかないかを考えれば、上が閊えに閊えているから、直ちに壁にぶち当たるというのが事実であろう。

 現状は現状である、将来もまた現状から予測される。
 送り出す側も、受け入れる側も、マイナスの情報ばかり出せとは言わないが、事実を伝えることは重要である。そして進み行く者達も、また事実を受け止める必要があるのだ。


   August 23, 2008 / Fool in the rain


医療の個別性 !



オーダーメイドの医療という表現がある。意味するところは分かっているつもりだが、何か漠然とした違和感を覚える。歯科医療の特性みたいなものに拘るからであろうか、それとも矢張り保険の縛りを思い浮かべるからなのか。兎も角、医療は本来オーダーメイドであるのが当たり前だろう。

医療者と患者の間に第三者が介入すると、医療の自由度は減少する。特に皆保険制度の下では、遊びの部分がなくなると、医療の個別性が失われる。
これがすなわち医療者からみた喫緊の課題となる「裁量権」で、医療者の患者に対する一方的な裁量のことではなく、医療者と患者の、いうなれば医療現場の「裁量権」である。

あなたにはあなたの患者がいて、何らかの了解の下に治療が行われる。わたしにはわたしの患者がいて、また別に何らかの了承を互いに得て治療が行われる。
全てが同じものではない筈だ。また自分と自分の患者が選択したものが、別の医療現場においても選択されるとは限らない。
そもそも、その選択の是非を完全な形で検証することは困難を極める。その選択に判定を下し、責任を問う基準はあるのか。
しかし好き勝手ばかりでは困り者だ。あなた達の絶対的な自己主張が玉座を得れば、他は毀損される。わたし達の場合もまた然りである。

『難問は、科学において客観性という理想にかわるほかの安定した理想を見つけだすことである』(※)

何事においても進歩は可能だろう。科学においても、社会制度においても。

医療保険制度においては、受益者が誰であるべきかを第一義とせねばならない。
であるなら、進歩することも進化することも可能となるのではないだろうか。

参考文献:【暗黙知の次元/マイケル・ポラニー著 佐藤敬三訳(紀伊國屋書店 1980年)】
(※)同書P.47



  August12, 2008 / Fool in the rain


護送船団方式からの脱却 !



護送船団方式からの脱却という言葉がある。正直、聞き飽きた言葉である。
歯科医療において語られる場合も、立派に陳旧化していると思う。

最早、無くなるところは無くなるし、潰れるところは潰れる。引退を早める者、経営が立ち行かなくなる者、諦めて転職、もっと前なら転部する者の数は相当の桁に及ぶであろう。
放って置こうが、制度を弄ろうが、また弄れば弄るほどに、過渡期には脱落者がごまんと出る。
開業歯科医であれば、運転資金の不足したところから淘汰を受けるのは当たり前のことだ。その経営・業務形態を考えれば、運転資金まで借入金に依存することになれば、お先真っ暗である。

こんな分かりきった話をしても仕方がない。

護送船団方式というのは既得権益者の保護を指すのだろうが、皆保険制度における最大の既得権益者は国民である。高い保険料を払わされた上に結構な負担金が生じるとの悪評があっても、誰もなくしてくれとは思っていない。歯科に就いても、その分の保険料を減額するといっても、矢張り保険に残して欲しいと考えるだろう。

さて歯科医の一部には、以前から「補綴外し」の願望がある。補綴の大部分を外してくれと願い出る度胸も実はないだろうが、兎も角、願望若しくは野望なるものは歯科医の側にある。
後ろで喇叭を吹く者、太鼓を鳴らす者もいるだろう。旧日本陸軍みたいなものである。 此処までならば良い。私が心配するのは、山本五十六のような人が現れないかということである。
勝算がないのは承知で、存分に暴れてみせましょうと、策を練り、行動を起こす人が出て来ないことを祈っている。

―――「仕方がないから、やってみるか」である。

南進か北進かはばれていた。真珠湾へ向かう洋上で無線封止もたいして行われていなかったらしいから、これもばれていたのだろう。そもそも全部がばれていたという説もある。宣戦布告の遅れもあったにせよ、兎も角ばれていたのに「だまし討ち」との誹りを受けた。

―――考えは、ばれている。

そしてジリ貧を恐れて一太刀を振るった日本は、結果としてドカ貧に陥った。

―――私達が振るう一太刀は、何処へ向けてのものなのか。


護送船団方式からの脱却―――美辞麗句に乗っかる時は注意した方が良いと思う。


  August 8, 2008 / Fool in the rain


補綴物を売って差益を得る !



確かに支払い側とすれば、金のかかる入院や補綴は余り評価をしたくなかったようだ。しかし、そこからの対応が医科と歯科では異なっていた。

これは前置きである。

また公的保険から補綴の給付を認める国は少ない。しかし虫歯の洪水の時代には、そんなことも言ってはいられなかったであろう。

これも前置きである。

かつて差額徴収に精を出した歯科は、金冠を売っていたようなものであったのか。

昔は歯科医も補綴物作製を日常的に行っていただろうし、院内技工は当たり前のことであっただろう。モノを売る感覚であったにせよ、そのモノを作るには前後を含めて技術が要る。しかし、どの部分の技術がどの程度に評価を得るかということに就いては御座なりにされた。


やがて技術の進歩もあって、また歯科医院の増加により、人件費を抑制する目的のためにも、すなわち効率化を目指して院外技工へと分離していく。

ただ技術の正当な評価もなされないままに分離したものだから、それは単なるアウトソーシング、つまり削減の対象となる委託費となった。加えてモノを売るという姿勢は崩れていない。


――自分だって偉そうなことは言えない。最近になって深く考えるようになっただけだ。


しかしながら補綴物に関し、他業種を引き合いに出して原価だ粗利だと宣って、その先の話がなければ、余りに行儀が悪いし、無策に過ぎると思う。

院外技工であれば、先ず原価計算を行うのは私達ではなく、歯科技工所の方である。また粗利益率を計算するのもいいが、コンビニでおにぎりを陳列しているようなものではないのだ。補綴物が単なる在庫であるなら、日々たな卸に励めばよかろう。保険の未装着(未来院)補綴物が不良在庫であるなら、七割超を請求する先があるのは結構な話だ。

変わらずモノを売って差益を得るという考え方では、私達が正当な技術の評価を求める際にまともな論拠は成立しない。


これから歯科医院経営は、基本、体力がないとやってはいけないであろう。だが歯科技工所だって体力はなくなっている。歯科技工士は、通常の意味での体力だってもたない。どんどん疲弊していき、遂には担い手がいなくなる。


だから、実は今が最後の勝負時なのだと思う。


  August 1, 2008 / Fool in the rain


窓のない部屋 ― 自由診療 !


これは、以前にも書いたことだが、「割れ窓理論(Broken Windows Theory)」というも のがある。

建物の窓ガラスが割れたまま放置されていると、誰も注意を払っていないということに なり、やがては他の窓も壊されるようになる。すなわち如何に些細な違反行為であろうと も、取り締まることに依り、凶悪犯罪を含めた不法行為を抑止することが可能となる。 我が国で分かりやすい例を挙げれば、違法駐車の徹底的な取り締まりである。併せて街 頭パトロールを強化することで、犯罪率も減少させることができるという。

本年10 月から保険医療機関に対する指導や監査が強化される。実施される個別指導は従 来の3 倍が予定されているが、「教育目的」で行われるのか、「懇切丁寧」に為されるのか。

それもまた「割れ窓理論」で行われるのなら、確かに不正請求が横行するのを防ぐこと にはなろう。つまりは監視を強化し、広くメッセージを送るということだ。

保険診療は、健康保険法等に基づく、保険者と保険医療機関との間の公法上の契約、す なわち契約診療であるがため、「知らなかった」では通用しない。

医学的に妥当適切な診療を行い、診療報酬点数表に定められたとおりに請求を行ってい るか否かということを如何様に解釈するのか、加えて疑義解釈に通知・通達の問題。 恐らく、生じて来るものは萎縮診療ではなかろうか。

窓を割るなど、とんでもないことである。しかし割れた窓に近づくどころか、窓の傍す ら歩けなくなるようでは好ましくない。限度を越えれば、保険診療の忌避が起こるのも当 然であろう。

保険診療を忌避する、言い換えれば自由診療を志向するというのには、ふたつの意味が ある。

ひとつは経済的なもので、保険希望患者を忌避し、自費希望患者を獲得するというもの である。もうひとつは、制約甚だしく、理想的また必要な歯科医療を行えないから保険の 枠外に出ざるを得ないというものだ。

保険医であるなら、公法上の契約に則って、能ふ限り保険の範疇で最善を施そうとする 歯科医も多い。さて、今後はどうなるのであろうか。

「転向」という言葉がある。ご年配の方なら御存知かも知れないが、かつて思想の科学 研究会が編集した、赤い文字で大きく表題が書かれた同名の書籍があった。

この「転向」とは、方向や立場を変えること、そして主義を放棄することを意味する。 信念が強ければ強いほど、また主義が明確であったときほど「転向」は生じ、全く別、 全く逆の方向へと進むことになる。喩えそれが偽装であれ、何らかの名残があれ。

兎も角は、信念を持つ者がくずおれるような局面が来ないことをただ願うばかりである。

更に、レセプトの完全オンライン化が目前に迫っている。現状の保険診療システムでは 軈て、とてもじゃないが殆どのところは耐えられなくなるのではないかとも言われている。

窓は大きくなる、総ガラス張りの建物みたいなものか。ガラス越しに実演即売会をやる ような性質のものでないことだけは確かだ。これでまた保険診療の忌避が生じるのか。よ り自由診療への志向が強まるとして、それはこれまでのような形での存続が可能であろう か。

語弊があるのは承知で悪い言い方をすれば、今まで自由診療は窓のない部屋で行われて いたようなものだ。今後は、保険と保険外を併用するならば、建物には多くの窓が拵えら れるのであろうか。

確かに患者とすれば、総ガラス張りであった方が望ましいであろう。
頻りに「透明化」という言葉が使われる。その「透明化」は、誰が何を目的として行う のか。
主導するのは誰か、私達が座して待つばかりで構わないのであろうかと思う。

July 28, 2008 / Fool in the rain


お花畑のような話 !


誰の造語か知らないが「重装備自爆開業」という言葉がある。自己資本なのか他人資本(借金)なのか、豪華絢爛な設備投資をしたが、思ったようには患者が来ずということを意味する。「生まれた時が一番出世していた」という台詞が太宰治か誰かの作品にあったが、「新規開業した時が一番成功していた」では確かに話にならない。

医療経営を行うには固定費管理が重要であるのに、とらぬ狸の皮算用で大きく資本投下すれば、それこそ取り返しがつかない。社会人ならばROA という言葉くらいは聞いたことがあるだろう。すなわち総資本経常利益率の分子である経常利益が上がらないことは問題外であるが、分母である総資本を減らすことだって重要なのだ。

単に「場所が良ければ」「腕が良ければ」はたまた口車に乗せられた差別化ごっこでは、お花畑でものを考えるといって過言ではなかろう。

さてベテラン勢だって偉そうなことは言えない。
ひとりの歯科医は、デフレで低金利ならば負債を減らすのが常道だと、一部返済をして備えた。
もうひとりの歯科医は、低金利のうちにと、また患者のためにと、積極的に設備投資を行った。
またあるひとりの歯科医は、低金利だからと、自宅を購入するためダブルローンを組んだ。
なんだか童話が出来そうである。挿絵は、お花畑に蝶が舞うところが似合いそうだ。

今後も歯科医療経済の縮小が予測される中、老いも若きも固定費管理に頭を痛めることになるであろう。しかし歯科の診療報酬体系には、高額を余儀なくされる固定費に対する手当てなんて視点が認められるのであろうか。そんなものがある訳はない、だから自由診療に活路を開くのだというのが大方の考えであろう。兎も角、変動費であるところの委託費、就中保険適用補綴物に関して、仲間とするべき歯科技工士の首を絞めたところで根本的な問題は解決しないのだが、我々といえば何時まで経っても無策極まりない。その無策に乗っかった上での自由診療志向である。いったい何時まで花が咲き乱れるのか私は知らないが。

国民の歯科医療に対する願いを叶えるためには、いったい如何ほどの規模の歯科医院がどれだけ存在するのが望ましいのか。それに見合ったものを算出する術はないのかと考えてみたりもする。

そんなお前こそが余計にお花畑だと言われるとそれまでだが、国の方は医療経済実態調査というものを行って、それを根拠にもしている。そのサンプリングの仕方もそうだが、分析手法に就いても医療関係者には悪評甚だしい。少なくとも私は、TKC 全国会の指標、M-BAST の方を余程に参考にしているが、医療経済と医療経営は別物だと言われるのであろうか。日医にしたってM-BAST を用いて論駁しているし、だいたい医療経済実態調査の何処が医療経済の実態を表したものなのかに就いて、詳らかな説明はなされていないと思う。

そこで歯科が用いるなら如何なるデータベースの信憑性が高いのか、またどんな分析手法が望ましいのか、そろそろ本腰を入れて考えてもいいだろう。

幾ら各個人が、行った設備投資や人件費に見合ったものが得られないからと訴えたところで、それが千差万別であれば、「その待合室のマッサージチェアは不要なのではないでしょうか」なんて皮肉が聞かれるかも分からない。尤もマッサージチェアを導入している歯科医院の存在を私は知らないが、どこかの役所で職員の福利厚生のためと称し、血税を使ってそれを購入していたという話は確かに聞いている。そこまで至れば、目の前に無数の蝶が乱れ飛ぶような思いがするが、誰が調査し、分析するにせよ、お花畑に寝そべって考えているようでは、碌なものは出て来ないのである。



July 21, 2008 / Fool in the rain


Hospitality〜歓待 !

最近どこの業界でも矢鱈とHospitalityという言葉を使う。歯科においても、語源を辿れば当然にせよ頻繁に用いられる。
 一般に「もてなし」という意味で使われるが、「歓待」と訳せば2004年にこの世を去ったジャック・デリダの論理を思い出す。フランス語でHospitalite であるが、女性名詞、男性名詞の区別が難しく、またそれ以前に私はフランス語など学んだこともない。
 高校生である拙宅の娘が、以前フランスの女の子とメル友であったし、第二外国語として選択するということで、仏和・和仏辞典と文法書を見ながら教えてもらうことになったのだが、途中あらぬことでこちらが説教を受ける羽目にも陥った。


 招待(Invitation)なのか、歓待(Hospitalite)なのか。デリダに依れば「歓待」とは他者を無条件で受け入れることを意味する。―――『絶対的ないし無条件の歓待は、通常の意味での歓待、条件付きの歓待、歓待の権利や契約などと手を切ることを前提としている(※1)』


 ところで私の娘は、最近ファーストフード店でアルバイトをしている。
生活に困っているとか、私が困らせているとかいうことは断じてないのだが、社会勉強なのか、それともエスカレーター校ならではの暇つぶしなのか、兎も角は結構楽しんで通っている。
スマイル0円、氷は無料。
聞いたところでは、自宅のコップを持ってこられた方が、紙コップを出す手間も省けていいそうだ。そしてこのスマイルも相手にスマイルを与えている自分を意識するようでは駄目らしい。自然と出来るように、言い換えれば相手に負い目を感じさせるようなものであってはならないとのこと。これは一見デリダの歓待の論理にも符合するではないか。兎も角ぎりぎりのところまで詰めてきている「もてなし」の教育システムは見事である。
 尤もそんなことだから、そんな風潮だから、患者である際も我儘な消費者になってしまうと医療関係者の声が聞こえてきそうではあるが。
翻って我が歯科業界は、制約甚だしい保険診療と活路を求める自由診療が混在して、お客様扱いをされてもお客様気分が味わえなかったり、お客様扱いをされてもいないのにお客様気分に浸ったり、実にギクシャクしている。結局そこには歓待するなんてものはなく、招待するか否かの話しか認められないのではないか。


 Hospitalityの語源はHospitalである。更に遡ればラテン語のホスペスで、単に「客」を意味した。これがキリスト教の普及とともに旅人、異邦人の宿泊施設、更には病院施設へと発達していくことになる。ホテルもホスピタルも由来は同じといわれるところだ。
 繰り返せば、デリダに依る「歓待」は無条件の受け入れを意味し、これは契約に基づくものではない。  我が国の医療は、準委任契約からなると言われ、そこには応召義務がある。そして救急医療とその他の扱いを分けるべきだという考えもある。更に歯科は保険診療と自由診療が甚だしく混在するため、請負契約の問題まで生じて話が難しくなる。
 またラテン語のホスペスをそのままに英語でHospiceといえば、現在はターミナルケアを行う施設のみならず、在宅ケアも指す。CureからCareへの時代という言葉もある。歯科関係者も日常的に「口腔ケア」「ヘルスケア」という言葉を用いている。
 余計に話が混乱してきた。特に歯科に限ると全く整理がつかない。
 冒頭で私が娘に叱責を受けたというのは、このあたりの話だ。医療は非営利、ビジネスではないからと論点をずらして言い訳するのが関の山だった。


矢張り医療の現場では「歓待」が望まれるのか。デリダの言葉を借りれば『あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆる同定以前に(※2)』
さて、医療の在り方、医療政策の立案に患者を招待することは必要である。理解ある人達を招き入れる、そして細目を提示するのは私達である。これが条件付というところであろうか。しかし、ここでも究極の理想は、矢張り歓待の論理なのであろう。| それは十字軍の時代に異邦人を受け入れるような話でもない。受け入れるのは、皆保険制度における同邦人であり、結局のところは同じ利害関係者でもあるのだ。

参考文献:【歓待について/ジャック・デリダ著 廣瀬浩司訳(産業図書 1999年)】
(※1)同書P.63
(※2)同書P.98


  July 14, 2008 / Fool in the rain


短冊に願いをこめて !



今日は七夕である。誰しもこどもの頃は、短冊に願い事を書いたものだろう。また私は、娘が小さかった頃には、一緒になって願い事を書いたものだ。
 「健やかに育ちますように」また「一緒に居られる時間を下さい」とも。

 私の自宅の近所に外科の先生が住まわれている。よく週末にお子さんとキャッチボールをするために帰って来られる。キャッチボールをするために、わざわざ時間を作り帰って来られるのだ。それくらい病院勤務医の先生方は多忙である。恐らく短冊に願い事をするなら、「時間を下さい」と記されるであろう。

 歯科医の多くは開業医である。病院の勤務医師ほどは忙しくはないであろう。と言っても、暇を持て余しているわけではなかろうし、また勝手に休みを拵えればよいと言われても、零細企業の主であれば、そんな悠長なことも言ってはいられない。

 その歯科医が短冊に願い事をするなら、何と記すのだろうか。
 「患者が増えますように」また「経営が安定しますように」、露骨に「収入が増えますように」というのもあろう。
 何だかぎすぎすして、七夕には相応しくない。
 加えてこの時期はレセプトの提出に重なる。おまけに今年は月曜日である。

 さて、「景色が美しいのではない、退屈が美しいのだ」と坂口安吾が言っていたのではなかったか。
 退屈は楽しめなくとも、天の川の美しさに心を惹かれる年もあっていいだろう。
 私が短冊に何かを記すとすれば、矢張り「時間を下さい」である。


   July 7, 2008 / Fool in the rain


「プレゼン能力」 !



ちょっと前に週刊誌で、ある科学者のコラムを読んだ。そこには、科学者にもプレゼン能力が必要とあった。どんなにすごい発見や発明があっても、他の人にそのすごさが認められないと、社会的にその発見や発明は認められないし、研究費なども出してもらえるようにならないというような主旨だった。

今の日本の教育だと、多くの場合高校で、理系と文系に分けられてしまう。自分がそうで あるのだが、理系の人間は表現力に乏しいことが多いような気がする。一般のひとに専門的なことを説明することは、結構、労力を必要とするのであるが、ただでさえ表現力の無い理系の人間には、かなり困難なことだといえよう。

一方、いわゆるマスコミには、文型の人間が多いはずである。彼らは一般のひとにニュースを伝えるのが仕事なのだから、プレゼン能力には長けているはずである。TVや新聞といった媒介を使いあらゆる分野のことを、わかりやすく伝えているのだ。

さて、自分の専門分野が記事や番組になっていると興味深く見るのであるが、見当はずれのことが少なくない。けれども、一般のひとは、プレゼン能力に優れたマスコミのいうことを信じてしまうだろう。現に、自分の専門分野ではないことについては、自分もマスコミのいうことを信じるしかないのであるから。

しかし、よく考えてみると、マスコミというのは、プレゼン能力だけをもった集団で、専門的知識は全く無いのである。ここに、現代社会の不幸があるのではないか。

プレゼン能力の無い専門家集団と専門的知識の無いマスコミと、どちらも正確に物事を一般の人々に伝えることが出来ないのである。

知らないということは、そのひとにとって存在しないことと同じである。歯科の現状も 伝わらなければ、無いことと同じなのだ。自分たちで、プレゼン能力を身に着けるか、マスコミの人間に正確な知識をつけてもらうか、その両方か。いずれにせよ、今のままでは、一番損なのは、何も知らない国民ということになるだろう。


               2008/07/01
               sato


Reach Out !



 忙しい合間の日曜日、家内に誘われて、タレントの木梨憲武氏の絵画展へと足を運んだ。家内は多少の絵心があるのだが、私にはそんな素養もない。お付き合いで結構な遠出をすることになったのだが、会場に着くと流石に有名タレントの個展だけあって、大入りの盛況である。人の流れに任せて進むと、中ほどあたりで壁面一杯に描かれた作品が現れた。人の手が描かれていて、大きくreach outという文字が書かれている。その通りこちらに向かって手を伸ばしてきている作品だ。

 思い出したのだが、1960年代にモータウン・サウンドの大御所フォートップスが「Reach out, I’ll be there」というヒット曲を放った。バブル経済華やかな1980年代後半に、日本の航空会社がその曲をCMにも採用していたが、I’llといえば思い出す人もいるか知れない。実は私達夫婦が新婚旅行の先を決めたのもそのパンフレットだ。

 話があらぬ方向に逸れたが、その歌詞にあった通り、reach outは一般に「助ける」「援助の手を差し出す」という意味で使われる。

 また英語力に乏しい私が知っているのだから、どの道フォーサイスかフリーマントルのスパイ小説で覚えたのであろうか、reach outには「ある人や集団へ接触する」という意味がある。要するに自分の領域外に踏み出すようなことだ。またボランティアにおいては、reach outは「手を差し出す」のではなく、「自分を差し出す」という強い意味があるらしい。

さて「自分を差し出す」といえば、あの難解で知られるヘーゲルは名訳にも依ろうが、次のように直截的に述べている―――『人間にとって一切が役に立つとすれば、同様に、人間もまたそういう存在であって、みんなの役に立ち、だれにでも利用できる集団の一員となるべく努めねばならない。自分のことを配慮するのと同程度に、自分を他のためにさしださねばならず、他にさしだすのと同程度に、自分のことを配慮しなければならない。世の中はもちつもたれつなのだ(※)』

(※)【精神現象学/G・W・F・へーゲル 長谷川宏訳(作品社 1998年)】

 保険制度に限らず、医療政策の決定過程には患者の意見が必要である。だから議論の場へ「患者を招待する」ことが喫緊の課題になっていると思う。

 確かに私達は専門職能集団であるし、持てる情報や提示するものは圧倒的である。従って「招待する」というのは何も、無責任にも患者に丸投げすることではないのだが、いつもここで誤解が生じる。

 またそれは説き伏せることでもない。最早個々の場においても、そんなことは望ましくはないであろう。

 互いの言葉に耳を傾ける。兎も角相手の話に光を当ててみることだ。それは勿論語る相手の背景をも照らし出す。その思考過程において如何なるものがあったのか。双方には利害、打算があろう。自己中心的、また正論と思しきものが実は復讐に過ぎなかったりもする。

 しかし議論は避けるべきではない。同じ場に集うことに依って同じものになれればいいのである。ルソーのいう「現存のものから可能のものへ」と議論することができれば、それがひとつの、そして大きな前進となるのではないだろうか。


June 15, 2008 / 夜間飛行―不時着


〜あとがきにかえて〜

人は説得する時に、小難しい論理を出す、そして、聞く側が中途半端な知識を持っているとその説得に乗ってしまう。

これほどと言える知識人が、簡単な詐称に乗るのはこのことであろうか。


 人を納得させるには、小難しい論理よりも、自身の能力の全てを示し、その対象となる人の側に立てるように考えることではないだろうか?

相手の側に立てなくても、相手の側に立とうとする気持ち、相互の理解への道にはならないか?


  June 16, 2008 / グズ



「右向け右」 !



社会保障費は、今年度から向う五年間にわたり2200億円削減される。実のところ財務省は、更に1000億円規模を削減する意向を持っていたとも言われる。そして勿論医療費がその対象外になろう筈はない。

政府内においては、医療費の機械的削減に対する異論はあっても、「効率性の追求」なるものには余り抵抗はなかろう。しかし言われるところの「効率性の追求」が、李啓充氏が述べられたように、コスト効率を意味するものなのか、単にコスト削減を望むものなのかは明らかではない。

先日に厚生労働大臣が、これからは利益団体の権限強化に繫がるような政策をとるべきでないと述べた。飽くまで国民の視点に立つとのことである。それは当たり前に正論であり、異議を申し立てるつもりもないが、意味の定かではない「効率性の追求」は国民にも刷り込まれている。

それがどのような意味でも、今後は医療提供体制に切り込まれて来ることが予想される。主治医制度、新たな医療連携、パラメディカルの活用、医療と介護はシームレスに、そして「選択と集中」の為の施設基準や医療機能評価。利益団体の権限強化に繫がらないのであれば、いい意味でも悪い意味でも効率化のための競争である。

個人診療所が乱立する歯科は、放置のままにすれば自然淘汰が生じ、程好い体制になるのか。病院に依るサテライト診療所の開設や大規模チェーン化が進んでも、また個人立診療所が万単位の淘汰を受けたところで、まだ万単位が余らないという保証もない。

そのような医療提供体制の再編というのは全く入れ物の話であって、中身が定まってもいない歯科においては、それより先に何を提供しようとするのかを明示せねばならない。

入れ物の話であれば、全然に纏りがつかないであろうが、私達が国民に対してその中身を指し示すのであれば、今こそ共通の理念を持たねばならないのではないか。皆が「右向け右」または「左向け左」となるには如何なるものがあるのか。

出し抜くのも結構、抜け駆けするのも構わない。現厚労大臣が言う通りに、やる気の無い者は今後退場を余儀なくされるであろうし、それも当然のことだ。

今言っていることは、そんな次元の話では全くないのである。何故に医療提供者の団結が必要かを考えてみなければならないと思う。


  June 7, 2008 / 夜間飛行wrote


連戦連敗のワーキングプア報道 !



 少し計り以前よりマスコミにて歯科医のワーキングプア報道がなされ、それは今も尚続いている。

 勤務医なら別だが、それが開業医であれば、自己資本であれ他人資本であれ、兎も角は数千万円の資金を用意できたのであるから、世間的には結構恵まれた話である。本当のワーキングプアは多額の資産など持たないし、それ以前に貸借対照表が存在しない。

 一連の報道に依って歯学部の志願者は減ったであろう。また金融機関もいっそうの融資引き締めにかかるかも知れない。余計な悲劇は無用だから、それはひとつの勝利と言えるのかも分からない。

 しかし、この一連の報道に依って世間には、ならば歯科医院の淘汰が進んで当然と受け止められるであろうし、最も困るのには、歯科医療の評価の改善を訴えるに、歯科医が困っているからとしか解釈されなくなるということがある。

 歯科医師過剰と並んで、国の歯科医療に対する低評価が原因であるといっても、世間がどう思うのかを考えてみればよい。結果として副産物どころか、ひとつの敗北を喫したとも言えるのではないか。

 もっと深刻な問題がある。各地で歯科技工士は勿論のこと、歯科衛生士学校の志願者が激減している。マスコミを通じてこんな情報が流れて来れば、それも当然のことであろう。自分が親であったなら、自分が担任の教師であったなら、こんな世界へ行けと進路指導などするものか。

 過剰なのは歯科医師であって、歯科衛生士は不足している。軈ては歯科技工士の不足に依って必ずこの業界は手酷い目に合う。

 我々は、こんなところでも敗北を喫しているのだ。

 既にみんな逃げ出してしまっている。残されるのは十万に至ろうとする歯科医のみなのか。

 これ以上連敗が続くのを防ぐには、我々は認識を改めねばならないし、制度の在り方も再考せねばならない。

 まだ余裕のある者も他人事のように面白がっている場合ではないのだ。


  May 21, 2008 / 夜間飛行 wrote


正しい歯科医療 !



 歯科医療においては、同じような場面でも、私たち歯科医がとる行為は千差万別である。更にその巧拙まで問えば、極めて大きな幅が生じる。従って標準化など不可能に近いともいわれ、それがまた歯科医療の特徴でもある。

 何を行うべきか、どのように為すべきか。それは単に医学的な立場からのみ決定されているのでもないし、また如何なる形であれ制度と無関係ではいられない。

 ここでは正しいこと、言い換えれば正義は果たして存在しているのであろうか。

 『自分は正義にかなっていると当の私が知っている―――このように請け合うことは、曇りのない良心と神秘化という形をとる以外には本質的に不可能である(※1)』とジャック・デリダは述べている。

 特に社会保険制度の中では、全体の利益を優先する功利論に寄り過ぎると、言い訳に始まって言い訳に終わることが多くなる。逆に功利主義の立場を遠く離れると、自慢話に次ぐ自慢話が乱れ飛び、制度とは何等の関係もなくなることが多い。


 話頭を転じることになるが、近年私たちのとる行為には、厳しくその根拠が問われるようになってきた。EBMという言葉で表され、これは勿論制度に組み込まれることになる。

 かつてマイケル・ポランニーという偉人が存在した。医学に始まり、化学と物理学を究め、ノーベル賞を獲得すると思われた矢先に社会科学へと転向し、哲学においては第三の道を模索した。

 そのポランニーは次のように述べている―――『近代医学の登場以前の医者の治療はみな、幾世紀にもわたって、公衆の眼には、その実際的成功なるものによって確固として実証されていたのであった。科学的方法が作り上げられた理由は、まさに、事物の本性を、実際問題によって生ずる状況におけるよりもより細心に制御された条件化で、もっと厳格な判定基準によって解明するためであった』

 純粋に医学として判定するのは誰なのか、それでは制度の中で判定するのは誰なのか。甚だ無根拠なものは当然に除外されねばならない。一方矮小化された医療制度の中で縛りに縛られるのであれば、そこには殆ど医学的根拠が認められないということになる。

 何が必要なのか―――Autonomyを「自治」と訳そうが、「自律」と理解しようが、「自主」と解釈しようが、結局話はそこに至るのではないかと思う。


(※1)【法の力/ジャック・デリダ著 堅田研一訳(法政大学出版局 1999年)】P.41
(※2)【個人的知識/マイケル・ポラニー著 長尾史郎訳(ハーベスト社 1985年)】P.171


   May 16, 2008 / 夜間飛行 wrote


皆保険制度であるということは !



自由主義者にして無類の皮肉屋であったG.K.チェスタトン(1874−1936年)は、如何なる反対も許さない社会主義政府を指して『そこではあらゆる物が政府から支給されるのだし、その上、反対するわがまままで下さいと言うのは理屈にあうまい(※1)』と揶揄していた。

さて、国民皆保険制度であるからといって、我が国の医療は統制経済でもない。

しかしながら勿体ない話である。勿体ないというのは皆保険制度そのものが勿体ないというのではない。それが比類なき徴収システムの堅持のみで、国民にとって為にならないものなら、その必要性は認めないであろう。それはそもそも手段であって、目的ではない筈だ。

勿体ないというのは、皆保険ならば全ての国民が利害関係者であるから、医療の在り方を考える同じ位置に皆がついているのにということだ。

あらゆる立場、あらゆる層の人達の意見が必要である。かつては国家の温情主義に頼る水面下の交渉が功を奏していたかも知れない。しかし水面に顔を出した時には誰かが大波を起こした後で、気が付けば引き潮に浚われて、大切なものが失われたということを私達は経験したのではなかったか。

国民全てが利害関係者であるといっても、その考えは千差万別に違いない。

ジャック・デリダ(1930−2004年)の言葉を借りれば、『参加者はいろいろ選択しなければならないし、区別し、差異を認め、価値を評価しなければならない(※2)』であろう。

確かに『差異をはっきりとマーク(※3)』する必要があるのだが、しかし参加者は『結局のところ、同じものなのである。何れにせよ彼らは、そこに参加しているのだ(※4)』


出し抜けに破壊的創造はなかろう、いきなりのシステム再構築も困ったものである。先ず考え直さねばならないことは個々の中にあるのではないか。そして相違を際立たせることではなく、差異を認め合うことが必要だ。

繰り返せば、利害関係者は全ての国民である。

(※1)【正気と狂気の間/G.K.チェスタトン著 上杉明訳(春秋社 1999年)】P.11
(※2,3,4)【パッション/ジャック・デリダ著 湯浅博雄訳(未來社 2001年)】P.8


May 12, 2008 / 夜間飛行wrote


強制加入の社会保険は不要か? !



―― ハイエクの「社会保険」―――

 英国のマーガレット・サッチャー女史が、破壊しようとして破壊し尽くせなかったものに、NHS(国民医療サービス)がある。NHSという制度がなければ医療サービスを享受することが叶わなかった人々が、それに依ってサービスを受けられるようになったのは明白である。しかしながら、それがまた医療サービスの進歩の上で妨げになったとも言われる。  すなわち誰しもが、それを好ましく思ってはいないのに、もう元には戻れないのである。

 我が国では国民皆保険制度の下、一般の人々はそこまで深くは考えていないであろう。 先の論理はサッチャー女史が傾倒した前世紀リバタリアンの大御所フリードリッヒ・フォン・ハイエク(1899−1992年)に拠るが、その考えは我が国においては、本音や打算として、経済人の頭の中と医療人の腹の中にある。

 ハイエクは、社会保険制度自体が悪いと考えたわけではなく、政府が介入した場合も同様であるとしたが、『問題が発生する可能性があるのは、それをどの程度まで強制的にするのか(※1)』なのだと述べている。

 それでは強制加入にしたのは、国民がそれを望み、受け入れるとしたからなのか。

 一方、『競争的条件を作り出せるところでは、いつも競争に依るべきだ(※2)』というハイエクの言葉に同意する医療人は多かろう。

 強制加入の医療保険は競争を阻害し、進歩の妨げになるのか、それなら社会保険そのものが自由加入で構わないのか。かわって二階建ての話もあるが、二階部分が重くなれば、一階部分は拉げてしまうのではないのか。

 増大する社会保障費に依って我が国は危殆に瀕するといわれ、医療費の抑制は至上命題となり、更には社会保険制度を解体するのかと見紛うほどである。

それが本当に国のためになるのかは、全てにおいて正しい情報を明かして貰わねば分からない。嘘なのか本当なのか―――「嘘も百遍いえば真実になる」といったのは、ヨーゼフ・ゲッベルスである。ハイエクがペンを持って昂然と批判したナチスの宣伝相だ。

 プロパガンダは要らない、英雄など何処にもいなくて構わない、必要なのは皆が冷静さを取り戻すことだ。


 さて余談だが、ハイエクの父親は医師で、貧民医といって、貧民のため市に雇用された内科医であった。極めて低い官職であったらしいが、幾分かの出世で満足し、自由な時間を好きな植物学に当てたそうである。それでも安寧な生活を得ていたというのは、極めて羨ましい話ではある。

― 参考文献 ―
【ハイエク、ハイエクを語る/スティーヴン・クレスケ、ライフ・ウェナー編 嶋津格訳  (名古屋大学出版会 2000年)】


(※1,2)同書P.133

April 30, 2008 / 夜間飛行 wrote


歯科は冥王星みたいなものか !

 最近、雑事に多忙である。不思議なことに、忙しい時ほど何の関係もない本が読みたくなる。暇な時に読めばいいのだが、何となく書棚の目を向けたところに『ケプラー疑惑(※)』という本があった。真実性は別として実にショッキングな内容で、詳らかには述べぬが、師であるティコ・ブラーエを助手であったケプラーが毒殺したのではないかということが書かれている。

ヨハネス・ケプラーといえば偉人中の偉人である。確かにケプラーの惑星の法則に関して『傾向と対策』で解いた覚えがある。因みに「解いた」と「解けた」は同義ではないし、実のところ私は、物理が全くの苦手であった。兎も角、昔懐かしかったからか否か、その本を買った理由すら覚えていないのでタチの悪い話ではある。  折角そんな書物を手に取ったのなら、16世紀から17世紀の天文学の世界にでも浸るか、主題を読みこなせばいいのに、ケプラー、惑星の法則と聞けば、直ぐに冥王星を思い浮かべてしまう。

冥王星が発見されたのはケプラーの死後300年を経た1930年である。ケプラーの惑星の三法則を満たす存在であるのに、2006年の国際天文学連合の総会において新たな惑星の定義がなされた為、準惑星へと降格の憂き目にあったのも記憶に新しい。

 嫌な予感がして来る―――その通りだ、歯科は冥王星みたいなものではないかと連想してしまう。

 冥王星は太陽系9番目の惑星の座を降りたが、歯科も「9番目」の診療科といえるのではないか。内科、心療内科、精神科と列挙するまでもなく、この縁起の悪い数字に符合するわけもない。しかし今日の歯科は、人に依っては最早医療とは見えないような存在になって来ているし、基本的には軽費医療で、命から最も離れた診療科であるように思われている。また当の本人である私達がそう思い込んでいることに最も問題があるのも確かだ。

冥王星には口もついていないし、国際天文学連合にその存在感を訴え出るわけでもない。しかし私達には口もついているし、語るべき言葉も持っているはずだ。そして冥王星は惑星の座から降格しようが、確かに太陽を中心に楕円軌道を描き続けている。それでは、私達はいったい何を中心に回っているのか、それとも振り回されているだけなのか。

兎も角、私達が何処を向いてものを考えているのか分からないような態度をとれば、知らぬ間に漆黒の果てまで弾き飛ばされ、二度と帰って来ることもできなくなるのではあるまいか。

(※)【ケプラー疑惑/ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 山越幸恵訳(地人書館 2006年)】

   April 26, 2008 / 夜間飛行 wrote


診療報酬改定説明会にて !



 3月21日付けの朝日新聞の意識調査に依れば、官僚を信用していると考えている人は1%、或る程度信用していると答えた人を含めても18%にしか至らなかったとのことである。

 これだけ不祥事が続けば、それも無理のない数字なのか知れない。しかし果たして皆が心底そう思っているのかは分からない。何も新聞社の調査方法に疑問があるのではなく、結局のところ「お上」に頼らざるを得ない体質に変化が生じていることを示すものではないと思う。即ちこれは積極的な批判にはあらず、消極的な批判に過ぎないのではないか。

   3月末に二年毎の行事として診療報酬改定説明会へと足を運んだ。誰しも個別の事象には疑問や怒りがあっても、地域の歯科医皆が集まるその場で窺われるのは、畢竟「点数が取れる」言い換えれば「点数を取らせてもらえる」というものであった。日頃大きな口を叩いていても、9万人の歯科医を食わせる為のシステムにおんぶにだっこで、厚生労働省の父権主義から脱却できる気配は一向に認められない。

 それにしても歯科医の数は増えたものだ。幾万人の歯科医を食べさせるシステムといっても限界があろう。最早新規に開業することはハイリスクにしてローリターンの賭け事のようなものと言われるが、人様のからだで賭け事をすると極論を言えば、倫理観も何もあったものではない。

 私も大層な人間ではないので、先人の言葉を借りるが、インマヌエル・カントは「実践理性批判」の中で次のような例えを述べた。―――『賭け事に負けた人は、恐らく自分自身と自分の不明とを腹立たしく思うかも知れない、しかし彼がいかさまをしたこと(たとえそれによって勝ったにしても)を自分でよく知っているとしたら、自分の行為を道徳的法則に突き合わせてみさえすれば、彼は自分自身を軽蔑するに違いない。(※1)』

 生き残る為に、過剰診療や不正請求が蔓延しているとして、それは「お上」の父権主義に便乗したものなのか、はたまた「お上」に対する消極的批判のつもりなのか。それでは勝ち残った者は、カントのいう『やくざ者(※2)』なのか、それとも『怜悧な人間(※3)』なのか。

 責めて人様のからだを預かるという気持を常に持っていなければ、それは医療を語る以前の問題となるのは当たり前の話である。

(※1,2,3)【カント実践理性批判/波多野精一、宮本和吉、篠田英雄訳(岩波文庫1985年第6刷)】P.87


                           April3, 2008 / 夜間飛行wrote


ありとキリギリス !



NHKの番組で見たのですが、人類の祖先はアフリカから出現し、肌の色を変えることによって、ヨーロッパやアジアの大陸に順応していったそうです。紫外線量と肌の色(メラニン)に相関関係があり、コンピュータ上のシミュレーションと実際の肌の色と見事に一致していました。

さて、私見ですが各国の気候気温と社会保障制度にある程度の相関関係がある?ような気がします。

北欧のような厳しい環境では、夏はともかく冬ではホームレスで越冬することは不可能です。高負担高福祉という土壌がDNAに刻み込まれている?そんな大層なものかい??突っ込まれそうですが南国ではとりあえず家がなくとも凍死することはないし、まあ、自給自足または自然からの食料採集で生きていけるわけです。

かつて植民地だったところが多く、経済的にもそれほど恵まれておらず、社会保障もないに等しいでしょう。国家が機能していないなりに、国民はそこそこの相互扶助をしていますが。

日本はというと、北は北海道 緯度的にはドイツと同じ、南は沖縄 亜熱帯で冬でも比較的暖かい。南はともかく北の地方では南国のような社会保証制度では、凍死や餓死が続出。実際、明治や昭和初期まで姥捨て山があったわけです。とにもかくにも、勤勉に冬に備え、貯蓄せざる得ないわけです。

戦後、日本も近代国家の仲間入りをし、完璧とは言わないまでも老後困らないような社会保障制度を構築してきたわけです。日本の気候や土壌に合った社会保障を、現在の高齢者達が築いてきたと言っても言い過ぎではないですよね。

童話の、「ありとキリギリス」はこの二者だけで完結するわけですが日本ではバッタが登場し、アニメのバグズライフよろしく「あり」の貯蓄を略奪しようとするのです。いやすでに略奪が完了してしまっています。

始末が悪いのは、バッタに荷担した「あり」が配給を少なくしないとコロニーが崩壊してしまうと嘘の喧伝を流して、さらにバッタに献上しようとしているのです。

「働きあり」は巣の中枢までは見られません。社会保障という配給が減らされても、そんなもんかと諦めムードです。

ゆとり教育、外圧による労働時間短縮、国際社会での競争力の低下・・いい加減目を覚ませといいたいですね。


                             2008/04/23
                             ノビタ


患者目線のホームページ !


 私は、宣伝しないことが宣伝だと思っている旧態依然とした歯科開業医である。従って広告宣伝費は一切発生していないし、思い込みなのか勘違いなのか、同様の意味合いでホームページも持たない。

 年々どころか日を追うごとにホームページを開く歯科医療機関は増えている。中には、私の思い込みを正してくれる素晴らしい内容のものも認める。患者の目線に立って、しかも飽くまで語り口は第三者。歯科、口腔の知識の啓蒙という点から実に好ましい。しかしながら反対に、無根拠甚だしいもの、理解に苦しむところのものもまた多い。

 米国のNIH(国立衛生研究所)のサイトでは、疾患の原因と予防、症状や標準的な治療法などの情報を国民に向けて発信している。リンクしているところは膨大で、NIDCR(国立歯科・頭蓋顔面研究所)のページも直ぐに開く。子供にでも分かる内容のものも多いし、公的機関が「標準」を示しているのだから、患者・国民に与える利益は大きいであろう。

 日本では、国立がんセンターのホームページの評価が高いと言われ、また各大学病院もインターネットを介して広く知識の普及を行っている。しかし予備知識を持たない患者・国民が一から検索したとして、辿り着いた先が「標準」を示す権威あるところかどうかは分からないであろう。インターネットが広告規制の対象外であれば尚のことである。

 そこで先ず公的または準公的機関がそのサイトで「標準」を示し、各医療機関が自信を持ってそこにリンクを貼るようになれば、「標準」から大きく離れた情報を除外することが可能になるし、一気に知識の啓蒙が可能な為、患者・国民の利益となるのではないか。患者の目線に立つ、患者の立場に拠るというのは、そのようなことだと思う。

 であるなら、実は面倒臭がっているだけの私もホームページを開設する気になるのかも知れない。


※ NIH(アメリカ国立衛生研究所)  http://www.nih.gov/
※ NIDCR(アメリカ国立歯科・頭蓋顔面研究所) http://www.nidcr.nih.gov/
※ 国立がんセンター http://www.ncc.go.jp/jp/


                             April 21, 2008 / 夜間飛行 wrote

混合診療」再考 !


〜ひとつの反省文〜

昨年11月7日、患者に公的保険が使える保険診療と使えない自由診療を併用する「混合診療」を原則禁止した国の政策に対し「法的根拠はない」とする初の司法判断が東京地裁にて下された。

これに依って一時的にとはいえ、医療界の内外で「混合診療」の議論は蒸し返され、遂には火を吹いた。そして歯科界でも、これを好機到来、逆に危機出来と二分する意見があちらこちらで生じた。

この裁判に関しては、原告が独力で闘った文字通り命懸けの話であり、そこには「一連の診療行為」の問題があって、皆保険制度における患者の権利が問われていたのである。 余りに全体の利益を慮る功利論に過ぎず、また余りに感情論に過ぎず、しかしながら、このようなケースが生じた時はどうやって患者の権利を守るのだと、先ず議論すべきはそこにある。

しかし生活の医療といわれる歯科ではアメニティの部分が主要な論点となるし、そのタイミングを見れば、支離滅裂で纏りのつかないものになる。

土田武中医協会長の言葉にあった通り決して共感も得られてはいないし、皆保険制度の摘み食いと揶揄されることもある歯科が、更には議論への便乗である。十分に自分達が為した情況の整理すら出来ていなければ、顔を洗って出直せとの誹りも受けようか。

だいたいが医療界の外を覗い、様々な提言や意見書を調べたところで、医科に対するものは数多認めても、歯科の二文字は殆ど見かけることができない。有っても「など」や「その他」の扱いである。それもその筈で世間一般からは、歯科においては相当以前に混合診療が導入済みとの誤解を受けている。

歯科界においては、混合診療賛成派に限らず、反対派にしたところで、自分達が蛇蝎の如く忌み嫌う経済財政諮問会議や規制改革会議に比べても遥かに不勉強であったし、その論拠は余りに稚拙であったのではないか。

影の部分で跋扈するのが経済財政諮問会議であるからとか、米国の対日要望書に明記してあるからなど、斜に構えているだけでは、そんなことを知っていようがいまいが、何も変わりはしない。一体この国は誰の為のものなのか。

歯科の現状を鑑みれば、何から何まで社会的に提供する必要が有るか否かは、誰の目にも明らかであろう。しかしながら私達がするべきなのは「線引き」の話ではない。私達が行うべきは、譲れないものの正当な評価を得て、それに見合った担保を明白にすること、そして社会的に歯科医療を提供する、その在り方を問うことである。

肝心の国民に問うたところで得られるものは余りないとの意見が少なくなかろうが、これまで逃げて、隠れていたのだから共感も得られなかったのではないか。歯科医療の価値を貶めていたのは、実のところ私達自身であったのかも知れぬ。結果として「線引き」の位置が上に来ようが、下に来ようが、碌なものしか提供しない気であるなら、それが希望か否かは分からないが、実質的に社会的な医療の範疇から叩き出されることになろう。


  April 11, 2008 / 夜間飛行 wrote


医療の危機とジャーナリズム !


 我が国の医療がここまで壊滅的打撃を受けたことに関して、ジャーナリズムが主犯であるという人達がいる。
 患者と医療者を分断するセンセーショナリズム、官の側からの一方通行の論理。これが最も医療者の違和感を生じさせるものであろう。
 またマスコミ、マスメディアと言い換えれば、広告の媒体という問題点もあろうが、それではPharmaceuticalsが主導する形に陥った学術誌は、医療者のProfessionとしての敗北を意味するのではないかとも考えられる。

クロード・ベルナールの「実験医学序説」に影響を受け、自然主義に傾倒し「居酒屋」や「ナナ」からなる「ルーゴンマッカール叢書」を著したエミール・ゾラは、19世紀末にジャーナリズムで活動していた時期がある。
その時代、既にゾラは、ジャーナリズムに依って、些細な出来事が途方もない重要性を帯び、そのジャーナリズム自体、危険なものがなければ生きて行けないとして『私が嘆かわしいと思うのは、この絶えず興奮を誘発しようとするやり方である。国民はそのせいで冷静さを失い、物音におののく(※1)』と述べた。
その一方で、重大な状況が出来した時に正しい判断や行動がとれるよう、また平静さを取り戻せるよう自問することの必要性を説く。

現在、我が国の医療がセンセーショナリズムに依って、輪をかけて危機的な状況に陥っているとするならば、改善を目的とするものであっても、私達が同様のセンセーショナリズムな手法に訴えるとか、深謀遠慮を欠いた一発逆転の発想を持つのは好ましくないのではあるまいか(確かに、悪しき権力の横暴を告発するにセンセーショナリズムやスキャンダリズムが有効であることに同意するのは吝かではないが)。

また、実のところ我が国のジャーナリズムは、他の国と比べると良質であると言われる。ただ当たり前の話で、官の側からの情報が圧倒的であり、更には「巧言徳を乱る」状況に陥る。そもそも我が国の医療の危機は「医療費亡国論」からなる医療費抑制政策に端を発したものであるが、これに対して医療者の側といえば、包み隠さず情報を発信していたかとなれば十分ではなかったであろう。確かにその情報が的確に伝えられるかは、圧倒的な情報量を出す側に依って掻き消されるかも知れぬ。しかし考えてもみれば、情報を提供する相手は、私達のすぐ目の前にもいるのだ。

そして「人類の良心を体現した」と賛辞を受けたゾラはこうも述べている。―――『いずれにしても、常に未来を信じるべきだ。何事であれ最終的な判断を下されるものはない。すべては前進しているからである。(※2)』

(※1,2)【ゾラ・セレクション第10巻 時代を読む/小倉孝誠、菅野賢治編訳(藤原書店 2002年)】より抜粋

  March21, 2008 / 夜間飛行 wrote


チーム医療 !

今後更に高齢化は進展し、在宅医療の重要性が高まる。そして歯科の二大疾患に対しては、予防を第一義の取組とせねばならないことが認識されている。従ってこれから最も必要性が高まるのは歯科衛生士という人材である。飽くまで個人的には、歯科衛生士の独立業務更には独立開業を認めるべきだと思っている。在宅医療には全く歯科医の頭越しに参画するのも構わないし、健診や予防業務も手上げ方式で行うのが好ましいと考えている。 私は、家内が歯科衛生士という正真正銘の利害関係者であるから、説得力を持たないと言われればそれまでだが、いつぞやの大臣答弁で「看護師、受付、奥様」と最後まで「歯科衛生士」という言葉が出てこなかった時、それを聞いていた家内の目を私は忘れることができない。これまで歯科衛生士という職種の評価は高いとはいえなかったし、資格名すら普く認知されていなかったのは、私達に責があるといって過言ではなかろう。

国の歯科医療に対する低評価が主たる原因であったにせよ、人件費という観点しかなかったのではないか。歯科衛生士の有効活用ということでも、費用対効果という経営の話に矮小化されていたのではなかったか。

私達が本来チームを組んでいる筈の職種には、言うまでもないが更に歯科技工士がいる。 このところ海外技工の問題が深刻化し、医療法、歯科技工士法や薬事法への抵触が指摘されているが、幾ら法律の話とはいえ、実のところ大概の歯科医にとってみれば後付の理屈で、補綴物をその名の通り「物」としてしか扱ってこなかったのだから仕方がない。

 序に言えば、歯科技工に関しては余り「物づくり」という言葉は用いない方が望ましいと思う。たとえそれがオーダーメイドであれ、「物」といってしまえば、価格競争に依る差別化の視点が強まるのが当然である。

 官の側にも「物と技術の分離」という考えがあるが、開業歴十数年にして、幾度も診療報酬改正説明会を受けた私が、歯科医療管理官から「歯科技工」なるものへの言及を聞いたのは一度だけ、それも「この点数では技工料を払えば、何も残らないかも知れない」というものであった。

 人件費に委託費、すなわち経費の話である。これまで技術や能力の評価なんて気の利いた話しはなく、言い切ってしまえば、経費、費用対効果という観点からしか捉えていなかったのである。

 現在、切れ目のない医療、職種横断型のチーム医療というのが叫ばれているが、そこへ歯科医師が参画するとして、これまで本当の意味でのチームを構成するつもりがあったのか極めて疑わしい我々を、歯科衛生士や歯科技工士は如何なる眼で見るのであろうか。

 私は、背中を射抜く冷たい視線を感じずにはいられない。

   March30, 2008 / 夜間飛行wrote


医療の在り方を考える共有地 !


最近、何の但し書きもなしに「医療は公共財である」と言われることが多い。
そもそも経済学において、英語のPublic goodsすなわち(純粋)公共財は、非排除性と非競合性を持つ財のことを指す。

非排除性とは、特定の人を排除することが困難、また対価を支払わなくとも消費可能なことをいう。そして非競合性とは、同時に何人がどれだけ使っても、一人当たりの消//費量が減らないことを意味する。たとえば国防は純粋公共財と定義されるが、医療は//本来これには当たらない。医療は、(公共財に対して)私的財と定義され、しかし公共性を有するためにメリット財として、何人もアクセス可能と考えられるものである。

だから「医療は公共財」と何の注釈もなしに発せられるその言葉には、医療が置かれている危機的な状況が内包されている。確かに救急医療を慮れば、首肯できるところも多い。それでは歯科医療はどうかということにもなる。

宇沢弘文氏の述べた「社会的共通資本」の定義なら歯科医療も介護も、更には教育もこれに合致するであろう。

さて似たような言葉に「共有財」というのがある。厳密には経済学においても「公共財」=「共有財」ではないし、これならば特定の学問領域にとらわれず、広い範囲で使うことが可能だ。言語やその他世代を超えて積み上げられてきた智慧も「共有財」であるということもできる。英語にすればCommon propertyで、遡ってCommonsといえば元々イギリスにおける共有地制度を指した。共有資源の乱獲が資源の枯渇を招くことを説いた生物学者ギャレット・ハーディンの「Commonsの悲劇」が有名であるが、逆に近年PublicとPrivateの公私二元論ではなく、諸問題を解決するに、このCommonsすなわち「共有」の概念が注目されている。

医療にせよ歯科医療にせよ、世代を積み重ねてきた「共有財」ということも可能であろうし、それならば医療の在り方を様々な知見をもって話し合う「共有地」もあってしかるべきではないか。

フリードリッヒ・ニーチェは著書「善悪の彼岸」の中で『共有でありうるものは、殆ど常に価値のないものばかりである(※1)』と「共有のよいもの」すなわち「共有財」を切って捨てた。しかし私たちは『多数者と一致したいという悪趣味は捨てられなければならない(※2)』というニーチェの言葉を反面教師として、不要な矜持を捨て去り、互いの差異を認め合わねばならないのではなかろうか。

さもなくば私達は、あの世のニーチェに更なる痛罵を受けることになるであろう。

(※1,2)【善悪の彼岸/ニーチェ著 木場深定訳(岩波文庫 1981年 第12刷)】より抜粋

  March14, 2008 / 夜間飛行 wrote


インターディシプリナリー !

 各専門領域(Discipline)を包括、連携して治療を行う学際的(Interdisciplinary)な手法は、より複雑な症例に対処することが可能になる。

 このインターディシプリナリーは、何も医学におけるものだけではなく、世界的なアカデミズムの潮流であると言われる。複雑さを増す諸問題に対応する為には、これまでのように各専門分野がその対象領域を広げるだけでは不十分で、人文・社会科学と自然科学の垣根をも取り払った、専門分野横断型の取り組みが必要であると言われる。

 医学や歯学においても、年々複雑化する諸問題や危機的な状況に対応するには、その中における各科横断型の取り組みは勿論のこと、医療経済学や社会福祉学、更に法学や倫理学との連携も必要になってくる。

 更に言うなら、複雑な諸問題を解決するのは、ひろく公共の利益に帰する為であって、幾ら横断型であろうと、各専門家の自己満足に過ぎないのであれば、それは全く無意味に等しい。

 世代を重ねるにつれて、ますます狭くなる活動分野の中に身を閉じ込め、他の分野や外部との接触を失っている姿を研究者や医師などの専門家に見たスペインの哲学者オルテガ(1883〜1955)は、専門家に仕立てられた時、自分の限界内に閉じ籠り、そこで満足しきる人間になることに警鐘を鳴らした。

 諸問題が深刻で危機的な状況にあるのなら、必要なのは横断的な諸学の知識で、しかも各分野の専門家に限らずひろく叡智を求めねばならない。最も優秀なのは、専門家であるとは限らないのだ。

 また公共の利益の為であるなら、時に国家と対峙することも厭わないのでなければ、それはそれでアカデミズムの危機と言えるのではないか。

 今一度オルテガの言葉を借りれば、我々は、巣箱の中の蜂窩にいる蜂の如くであってはならないのである。


 ※参考書籍【大衆の反逆/オルテガ 桑名一博訳 (白水社1991年)】


   March5, 2008 / 夜間飛行 wrote


バタフライ・エフェクト !

カオスとは混沌や無秩序などと訳されています。

最近では、この意味に加えて数学や物理学、一見不規則に見える運動の法則性を見出す研究としても使われるようです。
物事について、これから起こり得る状態や結果を予測する際に用いられる理論、これをカオス理論といいます。
本来であれば単純な法則性を有する事柄が、初期条件のごくわずかな差が時間の経過とともに拡大し、やがて将来の結果に大きな違いをもたらすというもので、これを語る上での有名な喩え話があります。

「バタフライ効果」という言葉をご存知でしょうか。
これは「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」とか、「アマゾンの蝶一匹の羽ばたきで遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」という話からこの名がついたそうで、これを題材とした映画(バタフライ・エフェクト)も2004年に公開され、続編も製作されました。
些か極端な喩え話であるかのように感じられるかもしれませんが、これに似た事例が医療現場でもよく見受けられ、「個々の現象は因果関係や経験則に基づいて予測できても、全体としてはそれらに連続性や法則性を持たず、予測が不可能」なことがあります。

明日の天気は予想しやすいが、三ヵ月後のそれは難しいのと同じように、患者への医療行為における短期予後は予測できても、3年、5年、10年といった長期予後の予測は極めて難しく、あらゆる部分で選択を迫られる分岐点があり、いくつかの選択肢の中から1つを選んで進むことの連続だといえます。

たとえばある分岐点で、AとBという2つの診療選択肢があったとして、ここでAとBを両方とも選ぶことはできません。
Aを選択するならばBを選択することをあきらめなければならず、逆もまた然りです。 また、第3の選択肢としてAもBも選択せず、Cという選択をする人もいるかもしれません。

これらの中からいずれの選択をしたとしたとしても、その時点でもう、選択をした事実から後戻りはできません。
進んでいくだけです。

その時点での正しい判断のもとに行われた医療であるならば、診査・診断から治癒、或いは症状安定に導くまでのプロセスにおいて、理屈上は、分岐点が少なければ少ないほど、スタートした時点での予測とゴールにあたる結果は、かけ離れたものにはならないことになりますが、医療はもともと「不確実性」を孕む上、患者の容体や属性も一律ではないため、治療の目指す結果は、医療は永遠に未完成であることからもわかるように、大きく変わることがあり、完全なる予測は、事実上不可能と思われます。

つまり、その時、その瞬間の判断で、それに続く結果がまったく違ったものになるということです。

しかも、プロセスの要所要所の判断が間違っていなかったとしても、ある時点で最初の予想と異なる方向に向かっているということが間々あり、それに気づいた時に、その発端となった原因を取り除けばよいかといえば、必ずしも事態が好転するとはいえず、 むしろその1つに変化を与えたことにより、予後や満足度に、より甚大な影響を及ぼしかねないという、複雑怪奇な因果関係や偶然の事象を追っているだけに、ある意味カオスであると言えるのかも知れません。

とかく私たちは、目に見えないものや理解の範疇を超えるものを否定する、という考え方をしてきました。
つまり曖昧さを回避するために、分からないものは否定するという基準を設け、自らを維持し、守ってきたわけです。
或いは分岐点での決断を先送りし続けてきた、ともいえるかもしれません。
たとえば、地球規模で問題になっている地球温暖化に象徴されるように、ある程度社会が認識し、その影響や実害が出始めるまで、おそらく人々は真剣に考えることをしてこなかったと思います。
ここで忘れてならないのが、温暖化は人類が火を使うようになった大昔から、すでに始まっていたという事実です。

認識や選択のごくわずかなズレが重なり、結果が予期せぬものであったとしても、そのプロセスにおいて生み出された結果となります。
結果は仮に偶然の積み重ねであったとしても、それは必然となります。
医療制度の在り方や、向う先についても同じことが言えると思います。
…過去のツケが今、回ってきています。
私たちがこの複雑な問題にどう立ち向かっていくべきか、今、問われています。

2008/02/21

SAT


虫歯保険 !



 かつて医事評論家の水野肇氏が、我が国の健康保険制度に就いて『健康保険というのは名前だけで、これは実は病気保険ではないか』と指摘されたことがあった。更に『予防医学ということを考えない医学は、もう今日の医学ではない』とさえ述べられた。

 昭和44年7月8日の衆院社会労働委員会における発言である。今を溯ること約四十年、水野氏の慧眼に感服するより他はないが、当時と今とを比べても、歯科では診療報酬制度に余り変化を認めることが出来ない。「虫歯の洪水」と呼ばれた時代は過ぎ去り、誰かが冗談で言った「歯医者の洪水」の今現在に至る。そして現状は、水野氏の表現を借りれば歯科の保険制度は未だ「虫歯保険」に他ならない。

 国民皆保険制度においては、医療提供者側が保険の二重指定を受けないか、患者が無保険若しくは端から保険証を提示しない場合を除いて、国民は須く「保険患者」である。そして繰り返せば、未だ歯科から見れば「虫歯保険」に過ぎないのであれば、歯科医学が進歩し、疾患構造の変化が認められる今、土台国民の要求に応えられる状況にはないのである。

   さて、このような制度に見切りをつけるか、実のところ見切りをつける気もなくて、ほどほどに付き合うことにするとなると、必ず「線引き」の話に至る。すなわち実質的な公的保険給付範囲の縮小である。業界の発展を謳うにせよ質の向上を騙るにせよ、実際は歯医者と業者の都合に依るものだから、国民の共感を得られるか否かは火を見るより明らかであろうと思う。

 いっそ線引きするのであれば、例えばカリエスは二十歳までが勝負だから、これから生まれ出る者に対しては、予算を一時予防に集中投下し、更に北欧の如く歯科衛生士や余った歯科医師を学校など至る所に配置する。代わりに十年後か二十年後には公的保険からの給付をやめてしまうといった年齢に依る「線引き」の考えもあるのだが、当然のことながら大きな声にはならない(尤も現在及び将来の国民が北欧のような管理(監視)体制を望むか否かは分からないのであるが)。

 兎も角「虫歯の洪水」の時代における大量に詰めるか抜くかの発想が歯科の保険制度の基盤になっているのであれば、日を追うごと年を重ねるごとに時代の要求との乖離は進む。

 これまでの数十年間、目先の利益に囚われて為すべきことを為さず、歯科界は我が国における立ち位置すら見失った感もあるが、その反省からか良い意味での切羽詰った声が各所で上がってきたようにも思える。これとは全く別の方向を窺うところの個人の夢や希望的観測(忌憚無く言えば「生き残り戦術」)を批判するつもりは毛頭ないが、少なくとも世の風向きが変わって認識をひとつに出来る兆しがあるのなら、今こそ歯科医療提供者には腰の据わった態度が求められるのであろうと思う。


   February24, 2008 / 夜間飛行 wrote


事前承認 !

 歯科は、行われた治療行為の結果を患者が評価しやすい医療であると言われる。
或る狙いや希望的観測もあって、補綴治療はその最たる例に挙げられる。(※1) このため歯科では事後の評価に目が向けられることが多い。

 一方、選択された治療そのものが必要であるか否かに就いても、歯科では瞭然である ことが多いが、事後の評価ほどには語られない。当たり前の話で、その術者限り の適応症というものがあってはならないし、Second opinion や Peer review を 是とするなら、先ずはこの部分で語らねばならない。

 この事前の必要性に関しては、度々にインプラントが槍玉に挙げられるが、ひとつの 治療法を Scapegoat にすることに依って他の全てが免罪符を得るわけでもない。

 生体への侵襲の度合いが軽微であれ重大であれ、また患者負担が低額であれ高額であ れ、医師誘発需要を孕む斯様な問題は至るところに探し求めることができる。これは 医科においてはより深刻な問題になるだろうし、極限では「死に行く人から毟り取り、剥 ぎ取る」ことにも為り兼ねない。

 結果として医事訴訟の激増と医療費の高騰を招いた米国ではガイドラインが先行したが、我が国でもガイドラインを単に保険の縛りと捉えて済むものではない。

 更に我が国が診療報酬制度の面でも後追いする感のあるドイツの歯科においては、患者の同意や署名を得るに煩雑な計画書が、更に疾病金庫の承認を得る必要があるという。(※2)

 そして我が国もその方向性を見るに、今後「事前承諾、事前承認」が顕在化してくるとも考えられる。

 さて我々医療者の行為は、重大な結果を齎すために Accountability を負う。~ 「自律」のための「情報開示」というのは、至るところで必要なのである。

(※1)その得られた評価が、然るべきところにまで届くか否かに就いては放擲されたままである。

(※2)「月刊保団連2007年10月号 中医協がない国の診療報酬」参照

February11, 2008 / 夜間飛行 wrote


リロード   新規 編集 凍結解除 差分 添付 複製 名前変更   トップ 一覧 単語検索 最終更新 BACKUP リンク元   ヘルプ  
Last-modified: 2008-11-23 (日) 21:22:24 (3620d)