Top / 歯牙余論・・その3

歯牙余論も随分コラムが多くなってきました。
読み込みに時間がかかるようになってきましたので、「その3」として、新しい分はこのページに載せていきたいと思います。


歯牙余論(しがのよろん)】
ここでは、歯牙は口の端を意味し、余論はそこからもらしてしまった僅かな言葉のことを言う
悪口や本音など悪い意味を想像しがちだが、
「歯牙の余論を惜しむことなかれ」と言い、少しの励ましや褒め言葉が大切であるという意味。これはまた、じつに良いことである。


〜「患者のニーズ」なるもの〜 !



医療経営が厳しくなっている昨今、よく「患者のニーズに合わせて」という言葉を聞く。
つまり「医療を受ける側の要求に沿った提供をせよ」ということなのだろう。

どんな商売でも客のニーズを常に考えている。
客が何を欲しているのか、どれくらいなら対価を支払うのか。
そしてその勝算がある時に商品なりサービスなりを売り出す。


では医療はどうだろう。

医療消費者である患者の最も求めていることは「病気にならない」ことだ。
それは歯科でも同じはず。
確かに更に美しくということで審美的な治療も
要求が高まっていると思うが、正確にはこれは「医療」ではない。
そして各団体が行っている歯科の患者アンケートでは、」
「保険の範囲を広げて欲しい」
「治療の説明を詳しくして欲しい」
「待たせないで欲しい」
「なるべく削ったり、抜いたりしないで欲しい」
「もっと丁寧に時間をかけて治療をして欲しい」

など、歯科医が言う「患者のニーズ」と必ずしも一致しない。


なぜなら、歯科医は上記の「患者のニーズ」を満たそうとすれば、
「商売」という観点からは全く勝算のないものになるからだ。


1人の患者を待たせず、よく説明をし、丁寧に治療をし、
さらに削ったり、抜いたりをなるべくせず、予防処置をしっかりする。
そしてそれを全て保険でやる。
これではその歯科医院は3ヶ月ともたないらしいし、
だいたい予防処置が保険で賄えないということだから「患者のニーズ」には応えられない。|

だから歯科医は「患者のニーズ」なるものを、まず勝算ありきで
「想像で」もしくは「極狭い範囲で」考え、それを患者に「売り込む」。
患者はそれが自分に必要か必要でないかの判断が難しいから、
「信用」でそれを買う。
そしていつしかそれが「患者のニーズ」としての確固たる地位を確立する。


本当の「患者のニーズ」は患者が素直に思うことであり、
医療の場合、それに勝算があるかどうかとは全く別の問題だ。
つまり患者の「医療はこうあって欲しい」という希望に対し、
専門家である医療者が実現の方法を考え、
それを採算の取れる制度へと変革することがもっとも自然で、
最も必要なことではないだろうか。


そのためには医療を受ける側の患者と施す側の医療者が同じ目線、
同じテーブルで話し合うことが不可欠であり、
「患者のニーズ」という言葉だけが一人歩きしていてはならないのではないか。


このことに医療者が気づいてくれれば、この国の医療制度は大きく変わると思う。

                by [the people]


「歯医者になったものの・・・」 !




国が入学定員数をコントロールできない私立歯科大・歯学部が多数を占めて、年々歯科医師、歯科診療所が増え続けてきたんだよな。
将来、人口の増加は見込めなく、来院患者は減る一方だし。

不安だなぁ・・・。
10年後どうなってるんだろ。
まだ、歯科医を続けているのだろうか?


大学に入学するために多大な学費を支払い、卒業しても勤務医の給与は安くて、貯金はたいして出来なかった。
でも、開業するのにも何千万円の費用がかかったんだよ。
銀行はなかなかうんと言ってくれなかったなぁ。


歯科疾病構造が変化し、う蝕に罹患している人はどんどん減少している。
年々患者さんの治療要求レベルはUPしてきているのに、消費者物価の変動に見合った診療報酬のUPはされないまま何十年。

経営していくには、経費を抑えるしかないけれど、人材確保のため人件費は削る訳にもいかない。
ただ、歯科衛生士は雇えないなぁ。合法的に出来る業務はあるけれど、ほんとに範囲が限られているし、唯一歯科衛生士が行う業務で報酬が認められている「実地指導」の報酬は雀の涙。
まぁ、求人しても、あまり好条件で待遇できないからか、問い合わせは来ないけどね。

世の中は感染対策にうるさいが、再診料400円では、かけるコストも限界がある。
やらなければという感染対策の意識は高いんだけど、その評価がねぇ。
滅菌器に入れる器具だけで相当な数あるよ。


材料費を削るのももう限界。
仕方なく削るのは、無理を承知で技工料金をターゲットにするしかないんだよ。
技工士さんもたいへんだよなぁ。判ってるんだけど・・
歯科技工士の離職率が高いのは、僕たち歯科医師もその責任の一端があるんだろうけど、じゃどうすればいいんだ?



保険でまじめに治療しようとしたら、きっと何ヶ月も持たないだろうな。
借金を返済して、給与を支払ったら、何にも残んない。

やっぱり、ここは自費しかないね。

でも、世の中、医療費UPにも敏感で、歯科でよく利用する金属の価格が高騰し、それを補うための診療報酬UPも、「歯科医療費の値上げ」ととられてしまうしなぁ。

自費となると、ターゲットは金持ち。
ここからどれだけ搾り取れるかにかかってるんだよ。
本当はこんな考えしたくないけど、仕方ないよ。
生きていかなければならないんだ。

普通の人の保険の治療はいかに経費、手間をかけずにするかにポイントを置いて、とにかく自費患者の獲得に精を出そうじゃないか。
それしか生き残る道はないんだろう。どの本を見てもコンサルタントはそう言ってる。
やはり、インプラントが手っ取り早いんだろうな。
講習会いっぱいあるし、講習受けるだけで、認定証くれるみたいだし。


……問題は、自費の対象となる患者さんの数かな。
ねずみ講じゃないけれど、自費患者さんが、どんどん無限に増えるわけないしなぁ。
周りの歯医者も必死だしね。


結局は、保険ではだめ、自費でもだめってことになるんかな。
なんで、こんなことになってしまったんだろう?

誰かが、何かをやったからこうなったんじゃなくて、誰も何もやらなかったからこうなってしまったんだろうな、きっと。



こんなこと考えている歯科医師の所に来る患者さんって、不幸かな??


          2009/05/23 夢



「大学は出たけれど」ですね・・・。
四面楚歌。
「疎」らな患者に溜息をつき、
「阻」まれるばかりの制度で、
「遡」るにも保険をないがしろにした過去は消せず、
「訴」えるにもロジックを持たない。
「粗」い逃げかたにひしめき合う「鼠」は「狙」われるがままに倒れてゆく。
「素」面ではやってられない現実に、何処かに「甦」生する「礎」を築くことは可能なのか。


        コメント by ハリー


悪徳歯科医と良心的な歯科医 !



数ある歯科の月刊誌、すなわち学術誌と呼ばれるものの多くは、
その誌面後半の可也の部分が歯科医療器材や講習会の広告に割かれている。
生涯研修の必要性が叫ばれるようになってから年々講習会の数も増えるように
なってきた。患者利益のためには、歯科医~も日々研鑽する必要があることは
当然であるが、これら講習会の広告を見ていると、患者利益というより
歯科医療提供者側の利益に力点が置かれているものも多い。
集患や増患のためというだけでなく、歯科の特徴ともいえる「自費」の二文字が
踊る広告の比率は増える一方である。そして中には年収に関する露骨な表現のもの
だって見ることができる。

今から何十年も前の差額徴収時代には、随分と悪徳歯科医キャンペーンが張られた
そうである。かつての悪徳歯科医がどれほどに悪徳だったのか知る由もないが、
現在のこういった広告の作り方を見ていると、ある種の下品さは以前よりも
増してきているようにも思える。こういった広告を打つ方も部外者にどう
見られるかを慮るべきだが、悪いことに部外者はもう既に十分目にしているに
違いない。
だいたい自費率の向上というのは、わざわざ自費の割合をいっているのだから、
それは畢竟保険の話に他ならない。その二枚舌で保険診療の低評価を
嘆いているのだから、窮状を訴えても話半分にも聞いて貰えないのは
当然と言えば当然である。

一方、このままでは良心的な歯科医は消え去る他ないとよく言われる。
良心的とは何を指してそう言っているのか定かではないが、
一般的に良心的といえば価格のことを意味する。しかし安ければ、
単刀直入にいって保険診療なら何でもかんでもいいという訳でもないだろう。
また実のところ、~良心的と装うことは左程難しくはない筈である。
その良心的な歯科医は、単に患者の来なくなった良心的な歯科医かも知れないし、
あらゆる意味で不勉強なだけなのかも分からない。歯科医師過剰が叫ばれる
今日においては、医療者として有って当然の良心に縋るほか術がなくなった
歯科医は早晩消え去ることが運命なのではないかというのが、
患者や国民からすれば疑問のない見解ではなかろうか。

今回のことは全て相当に自戒して書いたつもりである。
だいたいが医療者に求められている「自律」の前には「自戒」「自省」また「自制」
そして「自重」といったことが必要であると思う。
だが「自嘲」は兎も角として「自虐」というものが全く不要であることも、
また確かである。

  March 28, 2009 / R’R wrote


高速道路ETCカード と レセオンライン !



先日、友人の車に同乗していて、ETCゲート突破を体験した。
原因は、単純に、
ETC装置の横にある音楽CDを触った時に ETC装置に指が触れて
カードが外れていたのだ。
スグに路肩に停車させると、係員が走ってきて対応をしてもらったが。

さて、
今、急にETC以外での高速道路の通行が禁止されたら、
どんな混乱が起こるかを考えてみた。
また、鉄道で自動改札機以外の入場が認められないとトラブルはどうなるだろうか?


医療関係者で、レセオンライン化を完全に否定する人はいないと私は思う、
問題点は、レセオンライン化 以外でのレセプトの提出が否定されようとしていることである。

この問題点が、一般の人たちに理解されるためには、・・・・。
ETCカードを持たない人は、高速道路の通行を禁止する。
そんなことが、起ころうとしている。



     2009/03/15
     グズ


傍観者の戯言 !



当り前のことが当たり前にできない企業や業界は没落の一途を辿るといわれる。

何かが顧客の、更には社会の利益となることに気づけば、それはすぐさま実行に移されねばならない。

医療は他の業種と異なり多大なる規制がある。そして手続きについては軽々しいものでよかろう筈はない。

歯科、就中保険制度において、その提供者が患者利益を謳うものの中には、拡大解釈や抜け駆けと表現されるものもある。それが制度の取り決めに抵触するのではないかということである。

指摘を受けた者は、はじめその指摘を旧態依然といって患者利益を力説するが、詳らかにされた文言章句の前に饒舌さは鳴りを潜め、軈て寡黙になる。しかし指摘した側の者も、その指摘が正しいことを踏まえた上で己が行為を振り返る。そして制度の前で瑕疵がなかったかを自問し、とたんに口を閉ざすことになる。また果たして何もなければ、いったい如何ほどのことを行い得たかと自答することにもなる。

こうして遂には皆が当事者であることを拒んでしまう。歯科医療の現場においては紛うかたなき当事者である者が、それがための制度の前では傍観者となり、当事者となるのは行政指導に当たった者だけということになってしまう。そして他の者は何かに脅えながらも素知らぬ顔といったところだ。

私は、歯科医全ては同罪であるから、現行の制度の前に殉じろといっているのではない。当たり前のことが当たり前に行えるようにするには、私達が制度に対して当事者意識を持つことが必要である。ならば一片の通知や通達であれ、またそれが法であれ令であれ、おかしいものはおかしいと訴えなければ、社会にとっての益にもならない。四六時中に文言章句と突き合わせろといっているのではなく、自由な裁量を得て、それを社会のためにするのなら、民主的という表現を用いても構わないが、公に開かれることの必要性があるのだと思う。各々が分を尽くさねばならないというのには、このようなことも含まれると考える。

だが保険制度には限りがあるし、医療制度なるものは、私達が直接的に他人の生体へ介入することを社会から委任された身であってみれば、そこに大きな規制がかかるのもまた当然である。



さて、オルテガは著書「傍観者」の中で次のようにいっている。

『真に自由主義的な者は民主主義への己が熱意をも危惧と警戒の目で見つめていて、こう言ってもよければ、自分自身を制限するのだ(※)』


(※)【傍観者/オルテガ・イ・ガセー著 西澤龍生訳(筑摩叢書 1985年)】P.193


  March 11, 2009 / R’R wrote

違和感 !



右肩上がりの時代は疾っくの昔に過ぎ去り、少子高齢化が一層顕著になった今日、国の在り方を国民全てに問い直さねばならないのに、未だ医療の値段が密室にて取り決められているのはどうかという意見がある。

 国民から見れば馴れ合いの権益保護とされるこれも、現場の医療提供者にとっては専制的な押し付けであると映る。

 歯科においていっそう問題を複雑にしているのが51年通知、すなわち自由診療の存在である。何も取引先でなくてもいい、比較的に上位の所得階層にあり、理解力に優れた銀行関係者や会計士などの知友と腹を割って話をしてみれば分かる。相当の保険料や税金を徴収され、更に窓口で一部負担金を払い、その上に全く桁の異なる支払いが生じるとすれば患者が違和感を覚えるのも無理はない。

 相当以前のことだが、医事評論家の水野肇氏が新聞の取材に応じ、自らの歯科受診時の経験を述べておられた。保険証を提示し、通院していた或る時に、突然に30万円(数字は私の疎覚であるが)ほどの自己負担を歯科医から告げられたそうだ。何故にそれが保険にて行えないのかに違和感を覚えられたということだけではない。それが10割の全額自己負担であったにせよ、桁は跳ね上がっているのである。

 それが統制経済と自由経済の違いであるという歯科医もいるが、統制経済という言葉の定義をみれば、中高生にだって甚だしい間違いであることが分かる。また諸外国では歯科治療費の桁が変わることは歯科医療関係者のみならず、一部の一般人も知っている。しかし皆保険制度であるなら(実はなくてもだが)歯科医療は私達が国民から負託を受けたものなのである。


 先の水野肇氏は、著書「誰も書かなかった厚生省」の中で『医療費というのは、そもそもは医療の値段であり、それを当事者である医師や歯科医師が提示するのはいい(※1)』と認めた上で、その適否を判断する機構の必要性を指摘しておられる。すなわち『提示したものをそのまま唯々諾々と承知し、医療費として認めていることに違和感を禁じえない(※2)』ということである。

 審議会制度、すなわち中医協の限界を述べた上で『医療費も国民が決めておかしくないし、少なくとも決定のプロセスに国民が関与してもいい(※3)』とされているのだ。

 勿論これには、国民が医療費なるものに就いての知識を持たねばならないし、教育する機会も設けねばならない。細目を提示するのは専門家には違いないであろうが、患者が医療の当事者として全く何も知らされていなければ、違和感、もっというなら疑念というものを消し去ることが出来ないのは確かだろう。


 違和感や疑念というものが生じるのは、ただ単に値段に関してだけではない。保険制度のルールというものもそうである。例えば「51年通知」と「一連の診療行為」の問題に関しては、その情報公開や教育なら歯科医療の現場においても可能である。そしてそれだけでも認識の食い違いを是正することは出来る。だがそれすらもやりたくないというなら、「患者本位」や「患者参加」といったものは全く言葉だけのものになり、制度を改善する為の切羽詰まった要望が上がって行くことは一切ないのであろう。


参考文献:【誰も書かなかった厚生省/水野肇 (草思社 2005年)】
(※1,2,3)同書P.126


   March 3, 2009 / R’R wrote


二重、三重の嘘 !


現行の歯科診療報酬制度では、大学で教わった筈の手順を踏んだ治療をすることすら不可能であるといわれる。それをもって国の歯科医療軽視は怪しからんと多くの歯科医はいう。しかしどこを探したって、保険制度によっては歯科医療の提供が不可能であるという月間または年間のデータを認めることはできない。ならば言われていることに嘘があるのか、実際に行われていることに嘘があるのか。

歯科医の大半は開業医であるし、余程の例外を除いては勤務医を経験している。保険診療では学生レベルの歯科医療を提供することも困難であるというのが正しいなら、勤務医時代には既にみんな分かっていて、それでも保険取扱い医療機関をあらたに開設し、参入してきたわけで、つまり端から保険では満足な歯科医療を提供するつもりがなかったということになる。

それなら二重に嘘をついているのかといわれても仕方がないが、嘘をつくつもりはなく割り切っているだけだというなら、制度にとやかく文句をつけることもないであろう。

こういった話に付き合わされるのは御免蒙りたいと思っている歯科医は、保険診療には見切りをつけているという。

しかし代わって自由診療を希求するといっても、窓口では保険証の提示がなされている。

客寄せの優待券のつもりなのかどうかは知らないが、その癖にレセプト枚数はもっとあってもいいと思っている。結局ここでもまた嘘をついていて、三重、四重に嘘で塗り固めていることになってしまう。


 こんなことでは国民から見れば、歯科医が歯科医療政策の貧困さを嘆いたところで、商売敵が増え過ぎて困った歯医者が今頃になって騒ぎ出したのだろうと思われても仕方がない。


 しかしここまでいえば、必ずや優秀な歯科医達の逆鱗に触れることになってしまう。返される言葉は「私の考えや行いは、私の患者に受け入れられている」というものだ。  だがそんな局地的なことをいわれても言い訳にも何にもならない。歯科医なるものがステレオタイプの状態で、何から何まで志向するところが同じである必要などないが、最低限に質を担保するものとして、平準化や均てん化という概念と全く無関係でいられる筈はない

 誰しもそれぞれ背景なるものがあるが、一人の歯科医が数千もしくは万に及ぶ患者の背景を見たとしても、それは自分の診療所というたった一つのフィルターを通してのものに過ぎない。はじめから話していることは一億の背景を対象とするものなのである。


 「自分の目の前には現実に患者がいる」というのが真摯で切迫感を持ったものであるなら、猶のこと嘘で塗り固めた袋小路から抜け出ることを為さねばならないのだと思う。


 世の中の現状、廻るものも廻らなくなったかのようであるが、安心や安全のためには支払うべきものは支払わねばならないという考えが根付いてきたことも事実である。しかし今後情勢が良い方向にせよ悪い方向にせよ大きく変わることがあったとしても、このままでは再び歯科は乗り遅れることになるのではないかと危惧している。



   March 1, 2009 / R’R wrote


余りにも初歩的な話 !



 限られた社会保障の財源の下で歯科医療の質を確保するためには「急性期」に集中して十分な費用を投下するべきだという考えがある。勿論歯科において語られるこれは、医科におけるものとは全く異なった様相を呈する。歯科は単科であって、提供する医療機関の殆どが代わり映えのしない診療所であるから、急性期も慢性期も、その受け手は同じである。

 早い話が、永きに亘って抑制されたままの診療報酬であるなら、責めて補綴だけでも自由に価格を設定させて欲しいということである。補綴を保険から切り離した分、浮いた財源を「急性期」に廻して貰いたいといっても、元々の財源の全てを其処に移譲すれば、患者にしたら補綴は保険が効かないし、保険に残った処置や検査の費用は大幅に増えることになる。それがため社会保障として提供することに異論がなかろう「急性期」へのアクセス自体が著しく減少するなら、いったい誰の為に何をやりたいのか全く分からなくなる。

 私は、我が国の歯科医療に就いては、そのアクセスが余りにも良いことが決してプラスになっているとは考えていなかったし、今でもそう思っている。だが、それを述べた或る時に強く諭されたこともあった。そして未曾有の大不況といわれる今日に至っては、私の考えは相当に分が悪いといえるのかも知れない。


 国民皆保険制度において患者というものは、被保険者であり、納税者である。既に徴収されるものは徴収されているのだから、医療にアクセスすることは当然の権利である。

 一割負担が二割負担になり、二割負担が三割負担になった。保険料を支払い、税金を納めて、医療機関にかかれば窓口での自己負担が二倍増、三倍増であれば、患者にすれば大問題であって、余程の説明をして貰わなければ納得のいかないことは当然の話である。  しかしこれを歯科医の間で語ろうとすれば、袋叩きにあうことが少なくないのも全く不思議なことである。


 よく国民の間から、医療を守ることが大切というが、医者は我々のために何をしてくれたのだという声も上がる。すなわち医療へのアクセスの低減を防ぐため患者の自己負担金が増加しないような要望を国に上げ、運動してくれたのかということである。  患者の自己負担割合が増大した際には、医者は自分達の報酬を上げて貰うため、患者の自己負担が上がることを裏取引に依って了承したのだとの揶揄も至るところで見受けられた。

 医療提供者と患者が手を携えて改善を図るといっても、同じテーブルにつくにはそれ相応のものが必要なのである。

 医療費には保険料と税金が入っており、更に自己負担金が加わる。何故自己負担割合の増大が必要なのか、国に最も説明責任があるとしても、医療提供者が全くにその責から逃れることはできない。


 歯科は患者、国民のために何をしてくれたのか。どんな情報を示し、説明してくれたのか。

 他の先進諸国において歯科医療はもっと高価なものである。公的保険から補綴が給付される国は極めて稀である―――こういったものを極めて冷めた意見だという見方もある。  しかし私が思うに、これらは相当に熱い意見である。何故なら、とても必死な「後付の理屈」だからである。おまけに熱いのは身内の中だけだ。

 もっとクールでスマートにやればどうかとも思う。そうでないと、もっとスマートな連中にしてやられるからというのではない。我々が負けるとすれば、患者や国民に負けるのであり、それも当然の報いであるか知れないのだ。


   February 22, 2009 / R’R wrote


集約化 !



皆保険制度の優れたところは枚挙に暇がないというのは確かなことである。しかしそれが医療本来の姿を歪めてしまったという意見も多く、中には皆保険前の方が本来の姿であるという意地悪なものだってある。

しかしこれを増やし過ぎ、また増え過ぎたままの歯科医が言うと、途端に説得力を持たなくなる。

そもそも本来の姿というのは、何時ごろにあったものなのかはさっぱり分からない。かつてのアメリカがそうであったという根拠は勿論ない。近代医学・歯学の黎明期の頃であろうか、場所を違え、更に遡ってヒポクラテスの時代であろうか、ファラオの時代であろうか。


医療や歯科医療の望ましい姿というのは、目の前のことに限らず、その時代の要請に応えることが可能な提供体制を持つことも必要なのである。

意地悪な意見の持ち主が、果てしない自由を本心から求めているのかどうかは分からない。歯科のように希少価値のなくなった状態で自由化するというなら、より市場原理に任せるということになる。とんでもない二枚舌ならともかく、そこで今迄通りに単なる個人開業医を選ばせようというのも虫の好すぎる話だと思う。

歯科医療をよりいっそう市場化するなら、幾ら医療なるものに特異性があろうが、他の業種を大いに参考にせねばならない。価値というものは飽くまで供給者が主導し創造するものであるが、それを判断し、そこにまた新たな価値を加えるのは顧客である。その点で他の業種が時代の要請に応えるため鎬を削っているのを見習うこともよい。すると知恵の多いところ、力が大きいところに分があることも判ってくる。


私は正真正銘の個人零細開業医であるが、これからは集約化していくのも結構なのではないかと思っている。最早個人が借金をする時代ではなくなったし、今後ハードルが上がるであろう法令遵守や施設基準の確保も個人では困難になってくるのかも知れない。歯科はそれ自体が単科であるが、開業医が増える一方、地域の中核を担う病院歯科が、医科歯科格差が主たる原因であるにせよ閉鎖や縮小に追い込まれていることは大きな問題になっているし、少なくとも歯科医が複数いる組織の方がPeer reviewの点では好ましい。

以前から患者は歯科医自身に付くといわれる。だが若い世代の人達に聞いてみると必ずしもそうではないらしい。また継続して管理するかかり付け医を持つことが望ましいといっても、個人開業医に限定する必要もない。就職や転勤で遠方に行ってもカルテが持ち越されるシステムが機能するなら、全国規模のネットワークの方が有利である。

資本の大きなところは不採算になれば撤退し、その場合患者に対して無責任であるという陰口も聞かれるが、現実には個人だってその無責任な撤退が繰り返されている。

共同経営であれチェーン展開であれ、法に抵触せず制度を毀損しなければ、また歯科医療に損害を与えることがなければ、一切は自由であろうし、そもそも選択するのは患者であり国民なのである。


二年くらい前のことである。エジプトで4500年ほど前のファラオの歯科医(王家付き歯科医)三人の墓が発見されたとのニュースが流れてきた。その墓の造形からすると、三人の歯科医は富裕層の人間ではなかったそうだ。また三人は同僚だったに違いないだろうとも述べられていた。

当事の歯科医療は民衆の手の届くところにはなかったであろうが、歯科医もそれほど恵まれた立場にはなかったということらしい。

しかし同僚であったということは、Peer reviewが十分に行われていたと考えられそうであるし、王家付きなら担保すべきものは担保していたのではなかろうかといえば、余りに想像逞しいのか。


4500年前、王家の要請を受けた三人の歯科医は共同経営者であった。今日の我が国で、国民の歯科医療への要請に応えるには、果たしてどのような提供体制が望ましいのであろうかと、何となく考えてみたりする。


  February 13, 2009 / R’R wrote


歯科医院の乱立 !



或る外資系コンサルティング会社が存続難に陥った歯科医院を実質経営しており、それが事実とするならば医療法上不適切であると厚生労働省がコメントしたとのニュースが流れてきた。

 これに関して西村周三京都大学教授は『コンサル業者と契約する際のガイドラインを医師会が作るなどの対策を講じるべき。放置すればもっと悪質な業者が広がりかねない(※1)』と新聞社のインタビューに応えられた。この点に就いては至るところで語られることになろうし、余り触れることはしないが、西村教授がその前に『歯科医師が過剰な上、十分な経営知識のないまま開業していることに根本原因がある(※2)』と述べられたことを真摯に受け止める必要はあると思う。


 十年以上前までは、確たる根拠はないにせよ、標準規模の歯科医院に必要な患者数などは様々な業界誌や何かでよく語られていた。

例えば、安定した歯科医院経営のために月の初診数は100が必要。そのうち新規患者数が20を割れば、軈て患者の総数は減少し、医院の経営は縮小に向かうといったものだ。

 それが現在では、医療経済実態調査でも初診数の平均値は100を割り込んでいる。また以前なら月の新規患者数が20を割り込むようになるのは相当の年月が経ってからのことであったし、最も新患数が多い開業後5年目くらいまでは、その倍の40があっても当たり前の話で、それに遠く及ばないようであれば早晩刀折れ矢尽きることになるのは、開業歴の長い歯科医なら理解できる話である。

 上述した数字は確かに古いもので腰だめに過ぎない。しかし歯科の診療報酬点数が低いといわれることは今も昔も同じで、それに総額だって変化していない。かわって自由診療が鰻上りにあるという事実も認めない。つまり歯科医療の市場としての規模がたいして変っていないのなら、現時点でも相当に無理な状況に至っているのである。全国津々浦々、開業不可能なところで開業し、経営困難な状況で経営を続けようとするケースが後を絶たなければ、様々な問題は幾らでも起こり得る。

 また個人の資質の問題にもなるが、経営知識どころか財務諸表を全く読めない歯科開業医だって存在する。ひどい話ばかりするが、減価償却分で食っているようなケースは債務超過に陥るし、経営は既に失敗したも同然なのである。

悪い例は幾らでも出すことができる。分かりきったことだが、こちら側には相当の問題があるのだ―――だから幾らだって「隙」を認めることができる。


 歯科医療者も権丈善一慶応大学教授のいうところの「見積書」を出す必要があるが、それは国民の歯科医療を守るのに必要な「見積書」なのであって、経営不振に陥った歯科医院を公的資金にせよ何にせよ救済するための「請求書」ではない筈だ。

すなわち、全ての人のために財布を開け放っておれば、財布など幾らあっても足りないという最低限のことだけは認識せねばならないのである。


(※1,2) 京都新聞2009年2月1日朝刊


  February 1, 2009 / R’R wrote


愚か者 !



歯科医療制度、歯科保険制度の在り方を問い直すというのには、その中心に国民の声がなくてはならない。その為には国民と語る場を設けることが喫緊の課題となってくる。

 しかしこのような時世では、優先順位が低いと思しき歯科に対して興味を示す人は、何処かの紐付きでないかという疑いすらあるか分からない。

 公的歯科医療の縮小や混合診療解禁の狙い、また国民の為という理想も、語る相手が相手ならば、その志は低きに流れ、結局は差別化や選別、そしてクリームスキミングすなわち美味しいところどりの話に至る危険性だってあるかも知れない。だから目的だけは見失うことがあってはならない。

 そして独り善がりな意見も多かろうが、歯科医の内々でのみ交わされる意見だって十分に独り善がりなものであることもまた事実である。


繰り返せば歯科界の外と語る場を設けることの目的は、国民の為の望ましい歯科医療制度の構築である。国民というのには、何の但し書きもつける必要はない。そこら辺の中年に過ぎない私が敢えて言えば、そこら辺の青年やそこら辺の高齢者、またそこら辺の子供たちに利するものがあるか、たとえ全ての人に好都合でなかったにせよ、あって良かったと思えるようなものが、国民全てを対象とする制度の絶対要件なのである。

 その為に国民や患者の代表と話し合ったところで、結局は碌なものしか出てこないのであれば、未だしもお上に丸投げであった方がいいのかも知れないが、どうもそうではないことくらい私達は既に学んだのではなかったのか。

 私達もプロフェッションならば、語る言葉だって持っているし、提示するものだってある。そして広く一般に理解を求めることもプロフェッションの責務なのである。

 また私達は、自分がしたいことをするだけの存在ではないし、スペインの哲学者オルテガ(1883−1955)の言葉を借りれば、『家の外でも家の内と同じように振舞うことができると信じる「おぼっちゃん」(※1)』であってはならない筈である。


―――アナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりいまわしいといった。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである(※2)。―――


都合よく解釈してはならない。人任せにして、自分からは何もしようとせず、全く休みっぱなしというのは、愚か者に他ならない。

  自分自身の愚かさの中に腰を下して安住する時の平静さは、最早破られようとしていることを決して忘れてはならないのである。



参考文献:大衆の反逆/オルテガ 桑名一博訳 (白水社 1991年)
(※1) 同書P.150
(※2) P.115


  January 15, 2009 / R’R wrote


「閉塞感」 !



時の首相がみぞうゆうと言ったらしいが、未曾有の経済危機が世界的に訪れている。
世を閉塞感が覆い尽くそうとしているようである。

さて、歯科界も「閉塞感」が強い業界であるが、世間と違って、今に始まったことではない。
この歯科界の「閉塞感」は何に起因しているのだろう。
コンビニより歯科医院のほうが多く存在し、ワーキングプアーと呼ばれる歯科医師がいることがマスコミでも紹介されている。歯科医が自分たちの「閉塞感」を世間に訴えても世間では、「歯医者は金持ちだったけど、数が随分増えたらしい。ひとつの歯科医院の患者数も随分減って昔ほど儲からないようだ。患者の数が増えればいいの?」ぐらいの認識なのかもしれない。

では、患者が増えれば、「閉塞感」は解消されるのだろうか。

多くの歯科医が、自分の信念に基づいた歯科医療をしたいと考えているはずである。けれども診療報酬の単価は低いし、制限が多いという現実がある。仕方が無く、患者数をこなす、経費(含技工料・人件費)を削る、自費を増やす、請求に工夫をこらす等、それぞれが自分の良心が許す範囲で日々の診療をしてきたのであろう。言葉は悪いが、自分と制度をうまく誤魔化して折り合いをつけているのだ。


ところで、戦後生まれの私は、日本は民主主義の国であると教わってきたし、そう信じてきた。

現代における議会制民主主義国家の基準(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia』)
明らかに独裁体制である国が民主国家を自称している場合もあるので、外部からチェックできる基準として以下のようなものが用いられる。この議論はポリアーキー(Polyarchy)と呼ばれ、たとえばPolyarchyの草案者ロバート・ダールは7つの基本的条件を挙げている。
 すなわち1)行政決定を管理する選挙された官吏、2)自由で公正な選挙、3)普通選挙、4)行政職に対する公開性、5)表現の自由、6)代替的情報(反対意見)へのアクセス権、7)市民社会組織の自治。

これを「保険制度」にそのまま当てはめることは多少無理があるかもしれない。けれども、保険診療における「主権」は歯科医師にはなく、行政にあることは明白であろう。 ユダヤの法律には、大部分の人が守れないような法律をつくってはならないという原則があるそうだが、守れるはずもないルールの下で日々の診療をせざるを得ないということが、「閉塞感」を生んでいるのだろうか。

小泉内閣誕生以来、政府は医療費抑制政策を取ってきている。それは、予算を減らすだけではなく、指導・監査の強化という形にもなっている。行政はその独裁性を強めてきている。その極みがH18年の改定だったのである。
ところが、この状況に歯科医師たちは対抗する術を持っていない。

もし手段があるとすれば、国家の本来の主権者である国民に訴えることであろう。ただ、この手段は諸刃の剣なのである。行政の所業を糾弾するには、過去の自分達の誤魔化しもその咎を受けなければならないのである。「閉塞感」を打開するには、この諸刃の剣しかないが、なかなか剣を抜くことができない。実は、このジレンマが「閉塞感」の正体なのである。
世間の誤解が解けるわけがないのも道理であろう。



                sato
                200/12/27


国民という不確定性 !


 今、歯科医療を含めた医療制度全般が大きく歪み、様々な問題課題が噴出してきています。かつては医療者(医師会など)と行政(厚労省)が密室的ではあったものの、世界に誇る皆保険制度を作り上げて来たことは疑いのないことです。最近ではこれに加えて支払い側(財務省や保険者)も加え、「医療側、支払い側、公益側」の三者合意によって医療制度を改定しています。(中医協や社保審)

 しかしそれでもなお国民の意見、同意を得られていると感じることは少なく、社会保障国民会議の開催など「国民」参加の社会保障論議が盛んに求められています。

歯科医療においても歯科医療制度のみならず、歯科界の医療モラルの崩壊など多方面での問題が顕在化し、もはや国民視点を避けては立ち直ることは出来ないほどになっていることは多くの歯科医療者が感じ始めています。


 さて、国民のためにというが「国民」って何?誰?としばしば聞かれます。

上記のように今や医療制度を考える時に「国民」を意識せずに論じることは出来ません。 常に意識しなければなりませんが具体的に「国民」とは何かを定めることは困難に思われます。


 これを量子力学における「不確定性原理」的に考えてみます。

原子核における素粒子の一つである電子は確率分布によって存在しているのであり、 定まった位置にあるものではありません。「観測」したときに“たまたま” そこに定位したに過ぎず、観測していないときには電子は定まっておらず 電子雲と呼ばれ、確率分布的なそのあたりに“不確定に”存在しているそうです。


 「国民」というものもまさにそういう不確定性のものです。しばしば世論調査が国民の意思を示していると言われますが、これは標本抽出を行って「観測」した時に“たまたま”出た結果を統計処理しているのであって、真の世論(?)は同時瞬間的に実施された全数調査でしか分かりません。しかしこれは物理的に不可能ですから、実際には統計学的に“より事実に近い”であろうことを前提としてそれを「世論」としているわけです。

 すなわち医療制度論においても「国民って何?」という定義をしようとすること自体が 実は意味を成していないものであります。


 しかし電子と同じように確かに存在するのですから、それを不在に論じることは意味を成していないことになります。

 また国民の意志というのも一定の確率(言葉をかえればその時代の一般常識?)によっているに過ぎないのですが、不安定ながらもある程度の範囲内(確率分布)におさまるものですから、全くの無秩序というわけでもないのです。(ハイエクの言う、自由気ままな個人の集まりが秩序を形成してきた?)

 いずれにしても今後の議論においては、不確定であってもその国民視点を取り入れなければならず、それに成功したものが力を発揮するものと思われます。そのためにはその不確定を的確に象徴するような客観的指標、データ、論理構築が必要であり、私たち医療者にはそれ以外に方法は無いと思うのですが、如何でしょうか。


     2008-12-24 by ゴジラ



異論 !



 医療費抑制政策に依り歯科医師は、医師と違って現場から立ち去るのではなく、保険からの逃避行動に走っていると言われる。歯科医師の大半が開業医であることから、この認識は正しいと言えば正しい。


 保険診療において、より裁量権が狭められれば、自由診療を選択する機会は多くなるし、また経済的に低評価極まりなければ、自費診療に活路を見出す気持も強くなる。

 だが平成20年の診療報酬改定以降、全国的に示される数値は、世界同時不況の扉が開くまでにおいては、対前年比で請求件数、点数とも微増傾向にあった。自由診療の規模が拡大しているのかどうかは分からないが、歯科医がみな保険診療を忌避しているのであれば、件数及び点数は明白な減少を示さなければおかしい。

 18年の改定がそれだけ酷いものであったからという説明には頷けるが、どうやら保険には愛想も尽き果てたということではないらしい。

 保険にしがみ付いているのか、それでも立ち止まっているのかは分からない。確かに診療所のダウンサイジングをせず、保険医療機関の指定を取り下げても維持運営可能なところは極めて稀である。


 考えてもみれば、歯科診療報酬の低評価というのは今に始まったことではないし、遥か以前には諒解済みであった筈である。誰でもそれを知らずに開業したなどと言い訳することは出来ないだろう。B/Sすなわち貸借対照表には数千万の金額を認めるし、そこに高額の他人資本が入っているなら、金融機関に事業計画書くらい提出した記憶もあるに違いない。

 得られるものが少ないと思しきところへと参入し、豪華客船か最新鋭駆逐艦のつもりが蟹工船になったのは、自分の見込み違いや不甲斐無さに拠るものかも分からないし、それも蟹の獲れない蟹工船であるというのが事実なら、話を聞いてくれる暇人なんか何処にもいやしない。


 保険は安いと言いながら、せっせと請求だけは出て来る。誰も保険から立ち去ろうとはしていない。望み通りにやりたいから自由診療を志向するといっても、自費と保険を合わせて幾らというのが殆ど本音の話である。

 高度な技術を有する良質な歯科医にとっては、診療報酬点数表の中から歯科医療を提供するというのは屈辱的なのかも分からない。だがそれに該当するのは、ほんの一握りにしか過ぎないというのも、また事実なのか知れない。



   December 25, 2008 / R’R wrote


よく出来た制度 !


 我が国の歯科保険制度は、よく出来たものであるとは言える。歯科受診者の大部分に、その希望も含めて適応可能であるし、国民の間で著しい問題は顕在化していない。

 裁量権は奪われ、より制限が掛けられたといっても、実際は歯科医の間でしか語られていないし、また診療室の外へと問題は伝わって来ていない。

そして個別の項目を見れば低評価甚だしく、提供不可能でないかといっても、全体として出て来るデータには提供可能と思しき数字が並ぶ。

 そこには不正や過剰、手抜きがあるからと言ってしまえばそれまでであるし、好ましくない迎合だって認めるのかも知れない。

 なんだか魔法に掛けられたような話で、不可思議な基準に依り成り立っていると思う。


   「規矩準縄」という言葉がある。出典は孟子で、物事や行為の基準になるものを言う。

中国から日本に伝えられた技術のひとつに規矩術というものがあり、大工が指金を用いて建築物の構成を行うのに、建築部材に墨付け、作図をすることである。

また準縄とは水はかり、詰まり建築などに際して基準となる水平面を決める道具に由来するという。  先人の知恵が積み重ねられた基準は今日に至り、それに依って多くの人が事を為し、また改良されて後世へと伝えられる。

 似たような言葉に「杓子定規」がある。ひとつの基準で何から何までを決めようとして、全く応用も融通もきかないことをいう。曲がっている杓子の柄を、無理やり定規の代わりにすることの意である。

 乱暴に解釈すれば「規矩準縄」も行き過ぎれば「杓子定規」になるといったところか。


 制度というのは、人の為になければならない。その基準は、使い易いものでなくてはならない。曲がったものを真っ直ぐだと言い張り、無理に取り繕っておれば、誰の為にもならない。

 だが「規矩」にせよ「準縄」にせよ、それを使い熟すには、それ相応の覚悟と研鑽が必要なのである。



   December 12, 2008 / R’R wrote


縮小均衡 !



 有無を言わさぬリストラが至るところで始まった。どれほどの失業者が巷に溢れ、またしても失われた世代を作ることになるのかは、まだ分からない。

歯科は全くオーバークリニックの状況だが、他の業種にしても十分にオーバーストアであるし、集約をせねば共倒れの可能性が高いという意見が多い。

すなわち需要が縮小する局面においては供給を抑制することに依って均衡を図るという「縮小均衡」の考え方が優位に立って来る。合併や倒産・廃業の多発に依って、生き残ったところは相対的に上向くことはあっても、全体としては落ち込むことになる。

ありとあらゆる業界でこれを行うのなら国自体が成り立たなくなりそうなものだが、其処も彼処も共倒れでは、これまた国がもたない。

こういう状況では、社会保障に対しても効率化の要求は一段と増して来る。最早過剰が認識され、それを否定することの出来なくなった歯科においては、「縮小均衡」への圧力が更に加わって来ると考えるべきだ。過剰設備に遊休資産が多いとは誰しもが感じているし、既にごく普通の歯科医が個人で開業する時代は過ぎ去ったのかも知れない。

逆にそれが望ましいものにせよ手前勝手なものにせよ、「拡大均衡」の考え方も歯科業界の中にある。

もっと視野を広げてみたらどうかというものである。その中には確かに聞くべきものもあるし、そうでないものもある。またその受け取り方は個人に依って千差万別である。

だが「拡大」なるものは、経済と言ってもいいし、世間と言ってもいいが、国全体が方向性を改めた状況に至らなければ、受け入れてもらえるものではない。

歯科医療も本来聖域にあったのかどうかは知らないが、「聖域無き」という言葉の下、最早聖職というものはなくなってしまったのかも分からない。

兎も角、歯科医師の生活を守るということと国民の口腔を守るということが等式で結ばれていない以上、国民の側に積極的に出て行くか、若しくは積極的に招き入れる他は為す術がないと思われる。

国民皆保険下の歯科医療制度は、国民の側からみて著しい崩壊に至ったということはないしと思うし、崩壊しているという反論があっても、少なくとも数字的な根拠は示せない。

ただタチが悪いのは、現状の保険制度で経営や生活を成り立たせている私達が、疾っくに崩壊への道を歩み始めたというのを知っていることである。


  November 23, 2008 / Fool in the rain


愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ !



私が中学生の頃、世界は冷戦の真っ最中でした。「社会主義」の国が「資本主義」の国 と覇権を争っていたのです。経済的に「社会主義」の国が上回ったこともあったようです。

「社会主義」の国が出来たのは「資本主義」の国に欠点があったからです。一部の資本家 に富が集中して、多くの労働者が「搾取」されていたのです。「社会主義」の国のほうが 労働者にはいいはずでした。

「資本主義」の国もその後変わっていきます。「社会主義」的な政策を取り入れ、富の 再配分を行い社会保障を充実させていきます。もちろん「資本主義」はそのままにして。

冷戦は「資本主義」の国の勝利で終わりました。敵の利点を取り入れた「資本主義」の国 に対して「社会主義」の国はかたくなだったのです。独裁的な政治形態で批判を一切受けつけず結局は自滅してしまったのです。

ところが、勝利した「資本主義」の国は、競争相手がいなくなったせいか昔に戻ってしまいます。

一部の資本家が富を独占し始めるのです。金融という分野でその傾向は顕著でした。アメリカの金融関連会社の経営者は何百億円もの利益を個人で得るようになっていました。

そのような状況は長くは続かないようです。俗にいうバブルは崩壊してしまいました。あれほど栄華を極めた金融関連会社が倒産して、各国が躍起になって金融システムを立て直そうとしてももう元には戻りません。

勝利したはずの「資本主義」はその欠点をまた世界に晒しています。あたかも、100年前の「大恐慌」を繰り返すように。

ソ連が崩壊した頃、日本が「社会主義」で一番成功した国だといわれたこともありました。戦後、産官学一体になり、社会保障を充実させながら多くの国民が「エコノミックアニマル」と他国に揶揄されるほど働いた結果でした。右肩上がりで成長した日本でしたが、「バブルの崩壊」で高度成長は終焉を迎えます。既存のシステムではもう経済成長は望めなくなりました。

システムの変更、構造改革が必要でした。「産官学一体」は癒着のトライアングルとマスコミから批判され、既得権益を手放そうとしない者は抵抗勢力と呼ばれるようになりました。

ここで採るべき道は二通りあったのです。ひとつは「資本主義」の徹底です。公共事業等を減らし、「社会主義」的な政策をも削減して国家予算を抑制をして、小さな政府にするのです。

負の部分は切り捨て、経済成長だけを優先させます。自己責任の名の下、国による社会保障を抑制する分、税金を増やす必要がなく、税金が経済成長を妨げる要素になりません。 「社会主義」で一番成功したと言われた国を立て直すには有効のように感じられます。 (低負担・低福祉)

もうひとつは、「資本主義」の部分の構造改革を行うところまでは同じです。既得権益がなくなる分経済的弱者が生まれます。その代わりそのひとたちを手厚い社会保障で救う道です。「社会主義」的な政策は維持か増加させることになります。当然、税金は増え、政府は大きくなります。

税負担が大きい分経済の成長は遅く、低くなります。(高負担・高福祉)

「聖域なき構造改革」を掲げる時の首相は国民から絶大な支持を得ます。日本は前者を選びました。

経済指標を追求する大臣により、不良債権は減り、デフレからは脱却できたようです。

けれどもその結果、格差の広がる社会となり、国民所得は減り世界第2位といわれた経済大国から没落していきます。経済の回復だけを短期で図ったため、経済指標の数字は好転したのかもしれませんが、国民の安心(不安)感やモチベーションといった数字に表れないものは蔑ろにされ、国民の生活はむしろ悪くなっていっているように感じます。

息をつく間もなく、「大恐慌」がやってきました。日本は、又選択を迫られています。 後者を選んだからといって成功するとは限りませんが、昨今の世界の経済情勢(低負担・低福祉のアメリカ、高負担・高福祉の北欧)や歴史を見れば答えは明らかではないでしょうか。



Tue, 18 Nov 2008 sato


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Last-modified: 2009-07-09 (木) 08:11:29 (3116d)